世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月15日(月)最初から出来ていることを褒めるのもいかがか

業務日報

指導の進捗を確認するため、面談を実施した。指導を受ける立場と指導する立場、それぞれからヒアリングをおこなって、それを取りまとめた。同時に、ここまでの評価とこれからの課題を伝えていただいた。だいぶ馴染んできた手順ではあるのだけど、そのぶん、油断の色合いも濃くなってきている。フローの質のチェックなどが粗くなっているとは思う。数を重ねるにしたがって、この業務の意図、目的、背景といった"ポイント"の理解も進んではきているはずなので、それらを基準にしながら、おこなうべき行動そのものをあらためて精査する、といったアクションもまた、意識しておいてよいんだろうとは思った。緊張感が減るぶん視野を拡げ腕前を高めて対抗する案だ。

聞いている限り、今回の指導は、たいへん順調に進んでいるようだった。新人の評価がとにかく高かった。状況をうかがいながら、正直そこに甘えていたところはあったと思う。ほうっておいてもまあだいじょうぶだろう、というような"気の抜けた"判断が漏れ出ていたと思う。こういった予断や寄りかかりにも注意はしたい。憶測にせよ妄想にせよご都合主義な期待にせよ、こちら側で勝手に頭を止めるのはきっとよくない。判断ミスの確率を高めかねない。

まわりからの評価も納得のいく、「よい」人物では、たしかにあった。勢いに乗せられたわけではないけれど、ぼくからもその「よさ」が見える場面はあって、素朴に褒め称えてしまったかなと思う。ただ、振り返ってみれば、乱暴な言語化だった。よくない伝えかただった可能性もなくはない。褒めかたが過剰かつ画一的で嘘臭かったかもしれないという怖れはあるし、一点を褒められて満足されても困る的な問題もあったし、当人が特に褒めて欲しいと思っていないところをしつこく褒めてしまいむしろ嫌がられたのではないかという懸念もあった。無邪気に誉めてりゃよいわけじゃないんだよな、と自戒はした。

ニューロロジカルレベル

誉める・叱るの文脈で「ニューロロジカルレベル」を使った説明を見かける機会があって、なるほどねと思った。よって、記録しておく。

ニューロロジカルレベルは人間の意識のレベルをあらわす理論のひとつだ。ピラミッド図のイメージで、「抽象的・主観的・意識的」なものと「具体的・客観的・現象的」なものが、上下に並び、六階層で設定されている。このうち、最上位段階となる「スピリチュアル」はビジネス文脈だと(関係ないことが多いので)除外されがちだ。上から「アイデンティティ」「価値観」「能力」「行動」「環境」と続く。

おおざっぱに言うと、基本としては、褒めるときは上のほうで褒めたほうが効果が高く、叱るときは下のほうで叱ったほうがよい(ダメージをあたえすぎなくてよい、ので、そうしましょう)、といった話になっている。そういった形で説明が可能になる構造になっている。上位になればなるほど自己の存在意義に近づいていくため、アプローチしたときの衝撃がおおきくなる。そこをしっかりコントロールしよう、という考えかただ。

能力が褒められれば嬉しいが、それよりは価値観が褒められたほうが嬉しいし、アイデンティティ(あなたの存在自体が素晴らしいね)が褒められるなら、なおさら嬉しい。嬉しいというか感情が動く。インパクトが強い。効果も強い。逆に、ぼくが所属する単なる環境を褒められてもたいして嬉しくはない(東京で生まれたなんてすごいね!)。叱る場合も、価値観に対してダメだと言われるよりは、特定の行動に対してダメだと言われるほうが、基本的に傷が浅く済む(はずだ)。傷ついて、ひるんで、改善する気力が奪われるくらいなら、適切な距離感でのアプローチをおこないたい、という方向性になる。

あと、「行動」の源泉には「能力」があり、「能力」は「価値観」から来ており、「価値観」のうしろには「アイデンティティ」がある、というふうに、ある人間の出来事・行為・意志の源泉を追っかけていく目線についても考えさせられる構造なんだろうなと思った。

  • 1段目:アイデンティティ(自己認識)
  • 2段目:信念・価値観
  • 3段目:能力
  • 4段目:行動
  • 5段目:環境

2024年04月14日(日)遊び場もあるところで試してみる

墓参り後の宿泊

昨日の午前中の墓参りのあと、そのまま、近場の宿泊施設に泊まる形で動いた。まあまあの遠出だったのでそんなスケジュールを立てた。お子さまにとっては初の宿泊施設となる。どうなるか見ものだった。あるいは心配だった。施設や設備などある程度は調査のうえでお子さまに適した場所を選んではみたものの、問題のない運用が可能かはあやしいところだった。結論から言えば、お子さまの暴れん坊っぷりの問題よりも、自分自身の体調不良の問題のほうが大きくなってしまい、問題点が曖昧なまま終わってしまった。いや、うーん、でも、やっぱりだいぶ暴れてはいたかな。なんでも手を伸ばそうとする。悪戯心が芽生えてきている空気はすごくある。寝込んでしまったため奥様には迷惑をかけた。一泊して日曜日に帰宅。まったり過ごした。後半少し回復できたのはよかった。夜になって森博嗣氏の新刊小説が出ているのに気づき、歓びながら電子版を買い、読み始めた。

bookmeter.com

2024年04月13日(土)思い出の光景の中に入ってもらう

漢語

文章術や指南書で「漢語よりやまとことば(和語)を使ったほうがよい」といった教えを見かけることは多い。意識的にそうしたほうがよいと言われるだけの利点もわかるようにはなった。「利点」という漢字二文字が置かれているよりは、「よいところ」や「よさ」と書かれていたほうが、すっと頭に入ってくるし、「接戦」よりは「ぎりぎりの戦い」のほうがわかりやすく、「痛苦」よりは「痛みと苦しみ」のほうがわかりやすい。もちろん日常での馴染み具合によっても変わってはくるんだろうが、統計的にいえば、やまとことばのスルスル具合は間違いないところだろう。わかりやすい、というか、つかみやすい。やまとことばのほうが、やわらかくて、目にとまる。上滑りしない。

とはいえ、漢語の、というか漢字の、格好よさが、好きだ。熟語が見せてくれる発想の鋭さも好きである。綺麗だなとも思う。新しい熟語を知るのもシンプルに好きである。あと、熟語の漢字の上下を入れ替えてみせるみたいな遊びかたが、そもそもだいぶ好きかな。

展墓

ひさしぶりに墓参りに訪れた土曜日だった。墓参りにもなにかしら格好のよい漢語的な言い回しがあるんじゃないかな~、と思って調べてみた。結果、「墓参する」「展墓」にはたどりついた。むしろそれくらいしかなかった。残念だった。墓や寺や死の周辺には歴史的・儀礼的な言い回しがたくさん転がっていそうで期待したのだけど。

お墓のまわりではお子さまがなかなかに傍若無人な振る舞いを見せていて、非常に大変ではあった。ぼくにとっての「親戚の集まり」は、お墓参りの記憶ばっかりなところがあって、思い出の下地になっているその空間にお子さまを連れていけたのは、ちょっとだけ嬉しかった。つかれたはつかれた。

2024年04月12日(金)特にルール化せずともよい

杓子定規

杓子定規になる瞬間はある。考えが変に堅苦しくなる。意固地になる。特に文章の「網羅性」に対してはそうかなと思った。「すべて網羅できてないならやらない」「ぜんぶ書けないなら最初から手をつけない」くらいの投げやり感が出がちである。記録しない(0)よりは暫定的な記録(1)だけでも残しておいたほうがよいはずなのに、そんなふうに、冷静に思い直せることも少ない。判断を改めさせるために(いま記しているような)こんな文章が必要になってきたりもするし。そういう意味では、それに類する機会をちょくちょくもたらしてくれており、「日記」習慣がついているのは非常にありがたかったりする。

わずかな接触だけでもよい

ほんのり触れ合う程度の接触ではあったのだけど、妙に手触りよかったな~、くらいの出会いも気軽に書いちゃえばよいのにね、とは考えていた。網羅していなくてもよい。わずかな触れ合いでよい。ぜんぶ書き出さないと一個も書かないようなところがあるのでそこはなんとかしたい。

タイトルだけ

ウィッチウォッチ3巻、暗殺教室1巻、蜘蛛ですが、なにか?コミック版の3巻と4巻、豚のレバーは過熱しろ(4回目)、ロギング仕事術、センスの哲学、など、いろいろぱらぱらと読んだ日だった。というかまあ、だいたいこれくらい日々なんとなくページを開いたりはしている。といったタイトル名の記録すらできてないからな~。おそろしい。こういうのが積み重なると間違いなく楽しいものになると経験的には思っているため、書き残すようにしたい。Podcastとか動画とか、ほかにもいろいろあるし。

2024年04月11日(木)新人が仕切りを任されて十全に活躍している姿を初めて見た

送別会や懇親会に遭遇する機会は少なくなくて、まあまあ馴染みがある。決起会や納会との出会いはだいぶ遅くなってからだったし、最初、耳にしたとき、どんな言葉を書くのかもわからなかった。ケッキ?とか思った。いずれにせよ、飲み会めいた空間は嫌いじゃない。喜び勇むほうである。とはいえ、昔ほど楽しくなくなってきてはいるのかなあ、とは思っている。ただ、受け止める側の(こちら側の)気持ちや解釈の問題では、たぶんなくて、集うタイミングとメンツが合わせづらくなってしまっただけだろう。調整しづらくなった。無念だ。しかしそれはそれとして、飲み会自体は嫌いではないため、そこまで楽しく飲めるであろうひとたちとではなくとも、お誘いさえあれば、そこそこ喜び勇んだ気持ちで参加している次第である。今日もまあおおむねそういった木曜日ではあった。

だいたいおもしろかったことにしている

今回の木曜の飲み会と関係あるようなないような話だが、ひさしぶりになにかしらのお誘いを受けたときに、そういえば前回あんまりおもしろくなかったんだよな~、といった記憶がすっぽり抜け落ちてしまっていることが多く、お、楽しそう~、と、瞬間的に思ってしまう癖がある。なんか脳天気にわくわくしている。当日遊びにおもむいたあと、あ、そういえば前回もこんなつまんない感じだったわ……、と、そこでようやく記憶が呼び覚まされたりしている。にもかかわらずそのことすらまたもや忘れ去ってしまい、次のお誘いにも楽しそうだと飛びついたりもしている。うーん、とはいえ、長所やメリットと言ってもよいところではあるのかな。多少ばかみたいなところはあるものの、幸せっぽい空気もなくはなく、われながら嫌いじゃない性質ではある。だいたい二か月くらいたった頃から、なんというかこう、けっこうおもしろかったような……、と記憶を捏造し始める癖がある。

2024年04月10日(水)必要なときだけ形容詞を置く

雨も良い日

ここ何日か雨のぱらつく日が続いた。天候が崩れている、と当初は書こうとしたのだけど、やめた。天気が悪いという言い回しなんかもそうだが、「雨」を不備・欠点エリアに配置することが当然視されすぎなのではとは考える。ダメなものあつかいされすぎじゃんと思う。人類史的にそうだったんだからしょうがないのでは、という判定基準はあってもよい。が、どこかでそれが逆転させられるくらいの見直しが図られたってよいのにな〜とは思ってしまう。雨は恵み、雨はキレイ、雨の日はわくわくする、といった新たな理解が積み重なっていって、いつしか、人類史規模の認識が覆ってくれたらおもしろいのに、とか考える。生活習慣や生活レベルの大きな変節にともなって、生活領域でのパラダイムシフトが起こる事態には、ちょっとあこがれている。

細かい形容が要るか要らないか

たくさん、ちょっと、ときどき、なんだかんだ、妙に、不意に、むしろ、といった小さい言い回しを継ぎ足したくなる癖はある。ことばを重ねられるだけ重ねたほうが正確な情報伝達が可能だとか信じているところがあるんだろう。だが、すべての情報を組み入れて伝えようとすることが、かならずしも妥当なわけじゃないんだぞ、とも思う。冷蔵庫にある食材とにかく入れまくれば最高の料理ができるわけじゃないんだぞ、とも言える。

いちいち「すごく」とか「やや」とか「わずかに」とか「ふと」とか言わなくてもよい。割合や分量、多寡が問われる場面と問われない場面があって、特に求められていないときにそれを組み入れるなら、それは余計だ。削ってよい。あとたとえば、指示代名詞を排除して、すべて、正しい名詞を使って書けば、正しい言葉が書けるということでもない。それも余計なお世話だろう。

なんとなく思ったのか、だいぶ思ったのか、そしてそれを、わざわざ説明すべき場面なのかどうか、ケースバイケースとして、都度都度、ちゃんと判断すべきなんだろう。じゃないと、情報量が増えすぎて、咀嚼不可能なレベルにさえなってしまい、読んでもらえなくなってしまう。求められていない場面で求められていないものを削る、という手際も重要なんだと思う。正確さを目指していった結果が「読んでもらえない」なら意味なしだ。