世界は称賛に値する

日記を書きます

情報と知識

▼▼情報と知識、という言葉の使い分けに迷うことは時々ある。が、情報と知識という言葉を、行動としては、ほとんど間違うことなく、使いこなせているか、とも思える。言葉の置きかた自体は感得し掌握できているのだろう。前提や文脈、目的語を調整してみせることで、差異が、ぼんやりと見えてきたりもする。というような状況を、判っている、と言ってしまってよいのでは、とも思った。


▼▼情報は、客観寄りの言葉であり、物事、事柄、構造、世界、知覚、から引き出してこられる「諸々」の要素は、押し並べて「情報」と呼びうるものなのであろう、なんてふうに思っている。知識は、まあまあ主観寄りの言葉であって、頭脳や知性、といったものが関係してもいて、つまり、人間、と呼ばれるもののことを顧みながらでないと、出してこられない言葉である、はず──(だからつまり、対する「情報」は、頭脳や知性、人間とは、必ずしも関係していないもののはずである……)、なんてふうにも思っている。
▼▼といったくらいが、咄嗟に出せる、境界線、の説明になるかなあ。
▼▼情報は躰の外側のモノ、知識は躰の内側のモノ、といった線の引きかたについても同時に考えていた。躰の外側から躰の内側に入ってくる、ということ──躰の内側に入ってくる時に行なわれるであろう咀嚼や解釈、という現象、についても、踏まえたほうがよいんじゃないかなー、っていうのも、思えた。

▼▼回線上での検索をしてみたら、情報と知識の境界線の引きかた、については、だいぶ好き勝手言われている雰囲気があって、おお、凄いな、面白いな、と思えたりもした。知性や思考を讃えよう、健全かつ誠実かつ真摯に生きよう、知識を得るまでの、得られた知識の、上等さや純粋さ、美しさを踏まえよう、といった題目のために、知識、という言葉の「位置づけ」が、都合よく利用されている雰囲気があった。情報は下等であり、知識は上等である、というような構造にしてみせるだけで、人の知性、解釈、咀嚼、等々が、ほぼ自動的に「讃えられる」ことになる、といった手口が散見されたのであった。
▼▼知性も知識も、思考も認識も、好きではあるので、前述したような手口を、おおきく否定しようとは思わないのだけど、素敵な解釈と咀嚼を介して出来た素敵なモノ、でないなら、所詮は「情報」であって、「知識」と呼ぶに値しない、なんてふうに、「情報」を格下に置き「知識」を格上に置いて、結果、当該言葉たちを使いづらくしようとするのであれば──してしまっているのであれば、あんまり好きなやりかたじゃないなあ、なんて思ったりは、したのだった。


▼▼とはいえ、特定の言葉を「振るい落としを乗り越えてきた、上等なやつ、正式で公式のやつ」だと見做して、称揚してみせるやりかた、なんて、頻繁に見かけるか……。特別な不満を持つことなく素直に受け容れてしまっていることも、あるし。


▼▼なので今回の場合は、「知識」という言葉に対しては単純に馴染みと親しみがあったから、異なる意味合い、異なる重み、異なる空気、を付加しようとしている光景に出くわしてしまって、「ぼくの知っている『知識』はそんなんじゃない!!」ってツッコんでみせたくなってしまっただけ、な気もする。
▼▼知識、という言葉とは違う言葉を使って、「ぼくの頭、ぼくの躰に、入ってきた情報を、すごく丁寧に、非常に鋭く、大変細やかに、調整したやつ」を指し示そうとしていたのであれば、まあよいか、というかむしろ好きかも、と思えていた気もするのだ。

『情報』information
【1】ある物事の内容や事情についての知らせ。インフォメーション。「事件についての情報を得る」「情報を流す」「情報を交換する」「情報がもれる」「極秘情報」
【2】文字・数字などの記号やシンボルの媒体によって伝達され、受け手に状況に対する知識や適切な判断を生じさせるもの。「情報時代」
【3】生体系が働くための指令や信号。神経系の神経情報、内分泌系のホルモン情報、遺伝情報など。
──情報(じょうほう)とは - コトバンク

『知識』knowledge
【1】知ること。認識・理解すること。また、ある事柄などについて、知っている内容。「日々新しい―を得る」「―をひけらかす」「予備―」
【2】考える働き。知恵。「―が発達する」
【3】(多く「智識」と書く)仏語。
   仏法を説いて導く指導者。善知識。
   堂塔や仏像などの建立に金品を寄進すること。また、その人や金品。知識物。
   対象を外界に実在すると認める心の働き。
【4】《knowledge/〈ドイツ〉Wissen》哲学で、確実な根拠に基づく認識。客観的認識。
──知識(ちしき)とは - コトバンク

打ち切りと続き無し

▼▼無理矢理打ち切られたような最終回を見送ることになる、のと、続きが読めない中で続きは絶望的であると知らされる、のと、いずれがよいか、と問われると、非常に迷うなあ、と思った。まあまあ究極の選択だと思えた。たとえ、明確な答えなんて出しようのない「究極の選択」だったとしても、適当になんとなく答えておけばよいだろうと思えるやつ、と、なんとなくであろうと答えを返してしまうことでじぶんの中での答えが決まることを怖れてしまうやつ、という分岐があって、前述の問いは、後者の、なるたけ答えを固めてしまいたくないやつ、あんまり凝視したくないやつ、つまり、あんまり「この世界にはない」と思っておきたいやつ? っぽいなあ、と思った。
▼▼無論、厳密に言えばケースバイケースであり、物語によるし作品によるじゃん、とは言えるかとは思う。▼▼このあたりの「ケースバイケース」(物語の種類の差異)を突き詰めてみるのは、好きな気もする。けど。▼▼打ち切りを許容できる物語、と、未完を許容できる物語、の、差異。落差。なんてあるかな……。

愚痴活動と打開活動への分岐点

▼▼難儀、手間、面倒、不便、のほうに、天秤が、いくらかであれ傾かんとした瞬間、の変化の光景を、最近は意識しがちだ。見張っているような空気がある。傾かんとした瞬間に立ち顕れてくる(と想像している)「愚痴活動、と、打開活動、への分岐点」のことを意識してしまっているのだ。妙に気にしている。些細な機運と微細な意識の違いが、愚痴の道と打開の道を、分岐させてくる、とか思ってしまっているところがあって、じっくり見張っていることで、ここの違いをコントロールできるんじゃなかろうか、なんてふうに思ってしまっているところもある、のであった。▼▼分岐の決め手となってくる瞬間が一瞬だけあって、この決め手となる一瞬を見逃さないようにしている、と言える。決め手になるような「変化の一瞬」を捉えようとしてみせることが、難儀や手間や面倒や不便に向けた「変化」との、適切な付き合いかた、上手な取り扱いかた、なのだ、とか、想像してしまっている。
▼▼文句や不満を口にするための、隙も暇も、場も、相手も、与えなければ──与えられなければ、結局は、愚痴活動を始めるようなことはなく(特に意識せぬまま「愚痴」というものを認識せずに済ませてしまっていることは、多く)、結果として、慣れがち、忘れがち、終わらせてしまいがち、なのだ、というふうに学習しているところがあって、このあたりの、経験、理解、認識、学習、を使って──活かして、じぶんに対処をうながしている場面が増えている気もする、のであった。隙も暇も場も相手も無いようにしてしまおう、と思っているところがある。だからって打開活動に向かうか、と言われると、とは限らないか、と思えてきたりも無論するのだけれど……。

いろいろなところにきもちよさを覚える

▼▼人間はいろいろな動きに「気持ちよさ」を覚える。挙動や手順ごとに気持ちよさゲージ変動量が異なる印象である。といった「気持ちよさ」に対する見識が、多く、深く、細かいことにより、幸福度を底上げできる気はするし、物事を創作する行為がうまくなりそうな気もしている。調整できるし操作できるんじゃないかと期待してしまう。まあ、動きにまつわる、非言語な、暗黙知的な、気持ちよさ、って、掌握するの滅茶苦茶難しそうだけれど……(形式知的な気持ちよさなんてある? とも思ったけど、生理的にこれをしたら気持ちよくなる、という説明なんて、いくらでもあるか……)(おおきな動きに関する気持ちよさの違い、微細な動きについての気持ちよさの違い、知覚の動きでの気持ちよさの違い、精神や情感の動きに対する気持ちよさの違い、というふうに細分化も可能で、このあたりをどう見るか、というのもあるかな……。両手挙げるのと、瞳動かすのと、見るところ変えるのと、思うもの変えるの)

俺はまだ本気出してないだけ、が/も、自信

▼▼いわゆる「俺はまだ本気出してないだけ」というのも、自信、と言えるよなあ、とは思って、根拠のない自信、や、思い込み、勘違い、錯覚、あたりの言葉も関連で見回したのだけど、根っからの自信、というのは結局のところ根拠のないものなのである(……根があるのかないのか)、といった言説もあるじゃん、と思い、結果、混乱し、まあでもともあれ、自信としての種類や質の問題というのはどうでもよくて(如何なる形をしていようと、自信というパワーで発露しているならば、それは「自信」と言ってしまってよいのかも、と思えるところはあって)、なんというか、持っていた自信が崩れた時、挫けた時、の、対処法、対処の難しさ、に、違いがあるだけなのかな……、なんて思ったりもした。
▼▼根拠があるほうが崩れやすそうだけど立て直しも多少はやりやすそう、根拠がないと崩れにくいけど挫折した時の立て直しがしづらそう、と典型的なことも思った。まあでもこれも、根拠が妥当だったかどうか、勘違いや錯覚でなかったかどうか、によるか。あると思っていたものが無かったのと、少しズレていたのと、おおきくズレていたのと、代替や予備があるかどうかと、このへんで、再構築のやりかたも難易もおおきく変わってきてしまうだろう。
▼▼実際にやり遂げてきたことによって培われた自信、と比較しないと駄目な気はした。
▼▼堅固で強固な自信は欲しい。自信が幸せに繋がる雰囲気はかなりある。作りかたや持ちかたがあるなら知りたいとは思いがちだ。という欲があるせいで、このあたりについて気になって、考えていたところは、ある。

以前の職場の送別会2017年10月

▼▼別離と言えるほどの配置や位置ではなかったのだけど、多少の縁もあったので、若干遠くなるであろう距離のための送別会、に参加してきた。前々の職場の飲み会だった。非常に愉しい飲み会だったと思う。人が集まって酒を飲む、というだけでも、ピンからキリまであるものだな、と最近は時々考えてしまっている。面白さの多寡と機微に魅せられた経験が増えてきたせいだろう。オモシロイツマラナイに翻弄された記憶が脳にこびりつきつつある。滅茶苦茶オモシロイ会の記憶よりは滅茶苦茶ツマラナイ会の記憶のほうが少なめなのは僥倖と言える。
▼▼近況報告が多かった。就職や結婚を切り口にした話が、世代や年代のせいか、増えたかとも思えた。けど、近況報告は別に面白さに寄与していなかったかな。と思えているのは素敵であった。愉快な談笑だった。
▼▼途絶えていた遊び会が再開できそうになったのも、よかった。ボードゲームで遊ぶ場がまた増やせそうであり、幸せだ。しかし最近ボードゲーム好きすぎでは? 人と遊ぶ的な意識がぜんぶ持っていかれている気配さえある。まあボードゲームに限らず、遊びすぎな雰囲気はあるのだけど……。遊ぶのが好きすぎる?という疑問は大昔からある。リソースやコストを軽視しがちなのだ。無視とさえ言えそう。遊び人的に遊び抜いて破綻し自滅していくような精神が理解できる気はしてしまっている。まあ、結局はビビるので、いちおうブレーキがかけられている、のは、よかったけど、とも思う。