世界は称賛に値する

日記を書きます

一家言あると思い込めているところの機微

▼▼ここに関しては一家言あるよ、というような自認に対して、あぶなっかしいな、とは思うものの、生きる指針や生活の武器として──世の中や人生に関しての「当てにしようと思えるところ」として、こういった認識や感覚に頼るしかないじゃん、というところもあるなあ、と思ったので、調整がムズイ、と、改めて思った。

漢字から探偵

▼▼文法の別名として、統語論、統辞論、構文論、というものがある、と言われたら、なんとなく納得が増したりする。統語、統辞、構文、といった言葉が、なるほどねえ、このあたりを見ればよいのだな、と教えてくれるところがあって、結果、理解と納得の密度や精度が増える雰囲気だ。語を統べること、文を構築すること、というふうに、単語上の漢字から意味を類推することで、想像の緻密さがより増幅されたりする。
▼▼対比関係に意味論というものがあって、包括関係として音韻論と形態論がある、という情報も(あとは、統語論の近所に、実際の運用にフォーカスを当てた「用語論」というものがある、という情報も)、境界線をくっきりさせてくれる。理解のヒントになる。


▼▼といった雰囲気で、一つ一つの漢字が持つ意味を見つめていきながら、言葉の意味/境界線/定義を探っていく──探り当てていく、という行動が、楽しいな、と、けっこう頻繁に思っている。こういう探偵行為を趣味にしているところがある。

統語論・構文論・文法

▼▼論理と文法の区別ってうまく認識できていないなー、とか思って検索を始め、論理エラーと文法エラーという概念を区別している説話を見かけたら、なるほどねー、と、まあまあ思えた。如何なる状況を「間違い」「誤り」と見做すか、というところから境界線を探ることができた。
▼▼統語論と意味論という言語学的な区分を持ち出せば、より判りやすくなるっぽいかなあ。統語論は、構文論と同等であると見做されることがあるようだし、文法とも同等と見做されることもあるようだ。▼▼統語論の配下として形態論と音韻論がある、といった構造も認識しておく。

×理

▼▼論理にまつわる思索を物理で比喩して考えていたら面白かった。▼▼けっこうだらだらと思索を続けていたのだけど、物理で比較しながら考えていたら、なるほどね、っていう雰囲気になってきて、思索が終わった。
▼▼論説の動きの中にある理としての論理、物体の動きの中にある理としての物理。というような、×理、と言えるものが好きだ、って思ったりもしたのだけれど、つまり、学問が好き、科学が好き、という情景について語っていることになるのだな、とも思った。

常識を知らねば

▼▼誰かと話している時に、「あ、でも、こういう話って、一般的には/普通は/常識的には、こういうふうに理解や解釈されがちだよなー」って思いついてしまい、「こういう話ってよくこういうふうに言われたりしているけどさー、現況に関して言えばこういうところがこうなわけだし、あるいは、こういう見かたや考えかただってあるだろうし、だから、一概にこうであるとは言い切れないところもあって、だからつまり、ここで言いたいのは、まあ、よくあるそういう話も踏まえつつ、でも、こういうところもあるんじゃない? こう考えても/こう動いても、いいんじゃない? ということなんだけどもー」というふうに「解釈されてしまいそうなことに、言及して、潰そうとする」──「一般論化されてしまいそうなことを、先に潰そうとする」ことが、けっこうよくあるのだけど、相手が別にそんな「よく言われること」を、そもそも認知してるか判らないし、知っていたとしても気にするかどうか判らないし、だから、言うだけ無駄というか、無意味、逆効果、といったこともありうるし、でも無論、効果があるかもしれないのだし(まあ、あるんじゃないかなあ、って思っているところは間違いなくあるし──少なくともじぶんが聞く側だったら大変効果的なのは間違いないので(相手が「基本型を理解したうえで話しているかどうか」を、ぼくは重視してしまっているところがあるので))──、等々、まあいろいろと、考えどころがあって──いろいろと考えどころがあるということであって、つまり、世間や社会で「どんなふうに言われているか」という「統計的データ」を、多少は気にしないと駄目、ということも言えそう、というか、気にすると効果のある場面がまあまあありそう、というか、効果や意味があるならやっぱり気にしないと駄目っすかねえ、というか、そのあたりのことが、なんかこう、大変だなあ、と思う──一般論や常識や通説を「見聞き」してある程度知っている」ことが、前提とまではいかなくても、行動の効果や細やかさを変えてくれることがあってしまうなら、やっぱり、世間や社会に目を向けてないと駄目、好奇心を持ってないと駄目、っぽいところがあって、「ぽいところがある」ということが、ほんと大変だ! っていうようなことを、改めて、思ったのだった。まあでも、だからこそやりがいがあるのかな、みたいなことは、言ってもいいけど、別にそういうことことでもないか……。
▼▼人様と話す時に「それが世の中でどう言われているか」ってことがちょこちょこ影響してきたりするんすよね……(なので、それに対する対処の巧さも「コミュニケートの結果」に関わってきたりするんすよね……)、めんど……、ってだけの話っぽかった。

媒体移植により複数回食べる

▼▼コミカライズ、ノベライズ、シネマタイズ、テレビドラマ化、アニメ化、と、一つの物語が別媒体に移植される情景を比較的多く見るようになったと思えていて、同じ物語を増殖/再生産させようとするのってどうなのだろう、とか思うところも少しあったのだけど、すごく好きな物語も経年により記憶が薄れてしまう、ということが、あんまり好きではなかったりもするので、複数回(異なった調理法により飽きないようにしてくれるところもあったりしつつ)味わわせてくれること、および、複数回、経験が繰り返されることによって、記憶が強化されること、については、ありがたさも思ってよいよなー、って思ったりもした。
▼▼設定や台詞やシーンが、小噺や小ネタ、ギャグやパロディに使われがちで、今でも時々見かけている→見かけるごとに記憶が逐次更新されるため、なんとなく、忘れないでいられている──、といった構造も、だからだいぶ好きなのだな、とも思った。