世界は称賛に値する

日記を書きます

映画『この世界の片隅に』を観てきました

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▼▼戦時を描いた物語にはこれまであまり馴染みがなかったかと思う。改めて考えてみたら観た記憶があんまりない気がするぞ、と思えたのだった。特に意識して距離を置こうとしていたつもりはないので、まあたまたまだろう。ジブリの『火垂るの墓』は記憶にあるかな。けっこう最近の記憶だけれど。


▼▼戦時を題材にした物語にあまり触れてこなかったせいで、馴染みがなく、つまり想像が朧ろ気で、戦時的な現象や事実について、うまく想像できない、おかげで現実感的なものをうまく捉えられていない、なんとなく掴み損ねてしまっている、といったような問題が、これまであったのではないかな、ということも、合わせて思った。戦争やら戦時やらに対する懸命さや必死さが若干薄い、という疑問や自覚はあったからだ。
▼▼あるものを題材にした物語に沢山(まあ沢山とまではいかなくとも)触れてきたことによって、頭の中で、状況や光景がなんとなく想像できるようになっている、ということが──明瞭なところも綿密なところもありつつ、詳細は置いておいておおまかなところは掴めているつもりだけど的な状況のこともありつつ、とにかく、じぶんなりに「判る」と思えている、ということが、やはり、認識や意識、行動を、左右してくる、調節してくるんだな、ということも、まあ思ったのだった。
▼▼実際に知らないものについては、説話(調査)で知るしかなく、そうやってなんとか知って、情報を集めて、現実感を得つつ、自ら想像してみせて、感じるしかない、思うしかない、検討するしかない、というようなことの、甘さや怖さ、よさのことを思った。


▼▼派手に感情を揺さぶられる場面があまりないな、とは思えていて、むしろずっと揺さぶり続けられているぞ、という印象を受けながら観ていた。不安も悲惨もありながら、しかし安心して観ていられる、という謎で素敵な平衡があるなと思っていた。ほんとうにすごい映画だった。わりと強気におすすめできる。好評なことも嬉しく思える。
▼▼帰宅してから漫画も読んだ。漫画のみで読める物語もけっこうあって、これは漫画も読んでよかったなあ、と強く思った。

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『村の人生』で遊んだ(白色ボードゲーム会)

▼▼三が日も終わる。盤上遊戯の昨今のスムーズな流れも多少は滞りそうかな。残念、というほど停滞しない気もする。最後に、と少し遊んだ。

白色ボードゲーム会

『村の人生』

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▼▼昨年最後に買ったゲームだ。この年始には遊ぶ機会がなさそうだな、とか思っていたけれど、終了間際に運よく遊ぶ機会が持てた。遊んでみたあとの気持ちだけで言えば、余韻がすごい。頭の中の「また遊びたいぞ」という叫びがすごい。だいぶ響いている。以前に「重ゲーで遊んでみたい」と思った時にやった『コンコルディア』に対しても同じようなことを思った記憶がある、かな。快楽物質の量がいずれにしてもすごかった。
▼▼おのおののプレイヤーは、村に住む「家族」の担当する。家族コマを「職人」の場に配置することで──就職させることで、その職人が製造できるものを、時間消費だけで獲得できるようになったりする(時間も大切なリソースなので「時間消費だけで」ってことが必ずしも「よい」わけではないのだけど)。旅に出させることも、議会に向かわせることも、教会に向かわせることもできる。様々な場で何かを得て、功績を残し、最後には死んでゆく。死んだ場によって歴史に残る。歴史によって勝利点が得られる。
▼▼やっぱり重ゲー的なものについては──様々な要素を重ね持つゲームに関しては、説明が難しいところがあるよなあ、と、改めて思った。
▼▼職人、旅、教会、議会、市場、等々の「家族に行なわせることのできること」の、数値的な調整が、ほんとうに上手い、というふうに褒めたくなるゲームなのだけど(やれることが一杯あって、でも、これをやろう、いやあれがやりたいぞ、しかしそれをやったほうがいいのでは? と迷わせるだけの、情報量の調整と得点比率の調整が素晴らしい、という手触りを覚えているわけだけど)、なんかこう、こういう素晴らしさって、説明が難しいな、と、改めて思うのだ。
▼▼最初に説明書を読んだ時に気づけていなかった面白さとしては、ある家族コマを配置しても「亡くなるまで」しかメリットを与えてくれないため(職人として修行して「あるアイテムを継続的に得やすくなった」としても、結局は期間限定であるため)、様々な限定的なメリットの「重ね合わせ」の中で戦略や戦術を考えていかねばならない、というものがあった。コマが亡くなる、ということと、亡くなった時の功績が得点化される、というところにばかり着目していて、このコマがここで頑張ってくれているうちに、うまく活かさないと、という考えかたをしながら遊ぶことに気づいていなかったのだった。
▼▼結果として、このゲームめっちゃ好きだ!ってなった。拡張の『酒場』と『港町』も買いましょう。迷うことなく買いましょう。



村の人生 日本語版

村の人生 日本語版

村の人生:酒場 日本語版

村の人生:酒場 日本語版

村の人生:港町 日本語版

村の人生:港町 日本語版

ボードゲームの話増やしすぎかなとか雑記

▼▼日記の言葉が若干ボードゲームに侵食されつつあるかとは思う、今日この頃だ。脳内がだいぶ侵食されつつある、と言ってもおそらく過言にはならないだろう。というくらい嵌まってはいる。がっちり極まってもいるし、はっきり楽しんでもいる。


▼▼と同時に、このあたりの状況というか感覚に対して、快楽物質、的なものを怖れるような気持ちもあったりするのだった。快楽を覚える系統の物質が脳内で排出されているのは確実、と想像できる雰囲気はあるし、あの時の気持ちよさをまた味わいたいぞ、という思考が出てきがちになっているのも判るからだ。これまで日常的に出てきていたのとは異なる、突出した快楽、が、躰を浸しているのが判る。


▼▼我慢ができないほど脳が「気持ちよさ」を求めている、という状況が発生すると、細かい「嫌い」や「怖い」が気にならなくなる、といった経験は過去にもあって、同じ匂いがしているぞ、なんてふうに思ってもいるのであった。普段ならば躊躇したり遠慮したり恐怖したりしそうなところを、軽視し始めるし、無視し始める。目もくれなくなる。気持ちよさの優先順位が上がって、些細な気持ち悪さの優先順位が下がる、というより、認識できなくなって優先順位からも取り下げられる、という雰囲気かな。消滅させてしまう。



▼▼ボードゲーム、アナログゲーム、にまつわる日記は場所を変えようかな、と、少し検討してはいる。とはいえ、けっこう迷ってもいる。今後、複数の場所で文章を書く機会が出来たとしても、総合的な場所として、ごった煮的な場所として、じぶんが吐き出したぜんぶの言葉を読めるところとして、ここを扱おう、というふうに、以前から思ってはいたからだ。アーカイブス的な認識でいたのだ。


▼▼といった背景のもとで言うならば、これまでここで、素直に、自然に、書いていたようなもの──軸の異なる言葉は違う場所に置こうかなーとか(今回のように)思った時にここにこそ「残したい」と思えてしまうようなもの、を、単独で置いておける空間を、改めて、別に、ちゃんと、作っておかないと駄目なんじゃないの? っていうか、おかしな話になっちゃうんじゃない? っていうのは、まあ、思ったりもできてしまう、かなー。


▼▼ぜんぶまとめて置く場所、保管所、ごった煮、を作っておこう、と思うこと自体はまあよいにせよ、保管所とかごった煮とか「にだけ」置かれている言葉、っていうのがあるとするならば、それはなんかこう、駄目なんじゃない? いや駄目っていうか間違いっていうか、あとあと整理することを考えたら、単純に、微妙なんじゃない? 面倒では? というようなことは、思うし、思ってよさそうと思えるけれど……。


▼▼表舞台に出したもののアーカイブス的なものの中に、アーカイブスの中でだけ表出させていた言葉、なんてものが混じってたりすると、結局訳わからなくならない? 混乱しません? というだけのことであって、別に、アーカイブスの中、「様々な表舞台の言葉に混ぜるようにして」置いてる言葉、っていうのがあってもよい、のだけれど。▼▼とはいえ、まあ、別に、そういうものを求めてる訳でもないでしょ……。



▼▼日常思考記、思考の閃き、のようなものを「主」っぽくしておきたいんだろうな、とまあ改めて思ったりしているわけだけど、思う理由は、そういうものを読みたいから、と思っているからなんだろうな、ということも、合わせて思ったりした。


▼▼思考記録は惹かれ合う、ということでもないけれど(なくもないのだけれど)、まあ、なんらかの「通知」的な手立てによって、この人に読まれているのだな、とか認識できた時、当該人物が「思考記録的な言葉を書いている人物」だと(書いていることが追跡で判ると)、安心できる、というところがある──安心するじゃん? とか思っていたりするのだよなー。というか、じぶんの場合はあるのだ。ままある。


▼▼まあでも、日常思考記に限ったことではなくて、同種の趣味、同種の嗜好、が見えている相手ならば、「興味を持たれたこと」について、納得できる、納得しやすい、不満や怖れを覚えずにいられる、そして、安心できるし油断できるし、時に慢心できる、というだけの話じゃん? というふうに思えるところもあるなあ……。


▼▼というふうに整理してみると、ここに、安心とか納得とか「理解できる」とか思っているの、けっこう微妙なのでは、って気もしてくるなー。


▼▼ぜんぜん関係のなさそうな(同じ趣味を持っているとは思えないような)相手が、興味を持ってくるのは、なんだか納得がいかない、正直理解ができない、不満だ、というようなところに繋がりかねない話であって、そして、そんなふうに人を──人の興味や心や趣味嗜好を、既定するのは、雑すぎるだろ、とも思えるからだ。
▼▼じぶんが興味あるものについては、常に(まわりから見て判るように)、アウトプットしてなきゃ駄目だ、とでも言う気?


▼▼でもまあ、それでもなお、センシティブにはセンシティブを、というか、優しさには優しさを、というか、それを(出せるならば)(ちゃんと)出しながら──相手に判るよう提示しながら開示しながら開陳しながら、たとえば「武器を持たない」ことをアピールする時に両腕を開いてみせるようにして「近づく」ことに、意味があってもよい、価値があってもよい、必要性があってもよい、というのもあるかあ……。たぶんあるかな……。


▼▼実際まあボードゲームに特化したブログなりは作ってもよさそうかな。分けるにせよ分けないにせよ、作るのは作ってよいだろ、と思ってはいる。じぶんがボードゲーム関連の情報を欲した時に読みたがるもの、気分、から逆算したら、作ったほうがよい、っていう結論には、どうしても近づいていってしまうわけだし……。まとまってる情報が欲しくなる、っていうだけではあるけれど……。


▼▼ボードゲームってけっこう頭を使う。けっこうどころじゃなく頭を使う。人間と人間の頭脳ががっつりすっきりどっぷりぶつかり合う雰囲気だ。ボードゲームで遊んでいる時に認識できる「人への知見」って、ほんとうに沢山ある。「思う」ことだって沢山だ。このあたりを活かして、思考記録や発想記録を残すことは、まあできるだろ、っていう気もしてはいて、うまいこと融合させる道を考えましょうよ、とも思ったりしている。変にズラさなくてもよい。変にズレそうとか思わなくてもよい。▼▼わからんけど。


▼▼ボードゲーム空間の中でこそ得られる知見、勝負や競技、あるいは遊戯、的な空間内だからこそ気づける気配、特殊な状況設定にこそ現れてくれる発想、というあたりに、現状、目が向けられていないせいで、なんかこう、これまでとは違うものを書いてしまっているなー、異質な言葉を置いてしまっているなー、思考記録じゃないぞ……、とか思ってしまったところはありそうだな。▼▼目が行ってないのは、楽しさに溺れてるから、快楽に目が眩んでるから、まだそのあたりは気にせずとも(あるいは気にせずにいられているからこそ)じゅうぶんに楽しく気持ちよくなれちゃってるから、ってあたりが理由になるのかな。▼▼と気づければ、いろいろ派生させられそうでもあるな。


▼▼現状の雰囲気だとボードゲームの「作品紹介」の比重がおおきいから、今のような言葉使いになってしまっているのだ、という切り口も思いついた。ボードゲームの「思考紹介」の比重が増やせれば、これまでと変わらんやろ、という気もするのであった。

頌春

▼▼頌春。ショウシュン。春を頌える──春をタタえる。新年や年始や正月や年明けの類語を検索することで若干遊んだ。頌春はおそらくこれまで認識していなかったと思う。謹賀新年、恭賀新年、迎春、賀春、あたりは、ぼんやりにせよ、記憶の中にあったかな。年の瀬、という言い回しが好きなので、対義語というか対抗馬を探したのだけど、適当な雰囲気の言葉が見つからなかった。瀬、の逆側を求めた。
▼▼年間目標は目立っては立てないでよいかと思っているけれど、目標があるように振る舞おうとは思っている。目標があるのは好きだけど──目標がないのはあんまり好きじゃないのだけれど、明確な形で立てないのも好きなので、無理矢理(まあうまいこと調整しつつ)両立させたい、という欲だ。ワガママ型である。

『曖昧フェイバリットシングス』『アンドールの伝説』で遊んだ(白色ボードゲーム会)

白色ボードゲーム会

▼▼沢山のボードゲームを買った一年だった。記録は粗めである。残念だ。獲得の履歴が粗雑すぎて、後悔も満足もあまりうまくできない雰囲気がある、のであった。まあでも実際は理解がしたいだけ、と言えそうかなー。理解というか、把握というか、納得がしたいのだろう。掌握すると気持ちよい──掌握した時の気持ちよさが好きだ、というのは、極めて明瞭に思っている。掌握的な気分が満足や安心の呼び水になってくれるだろう、と信じてもいるのである。▼▼というのを世界観測時の前提にしているところがあるのだ。掌握側に惹かれがちなのはそのせいだろう。満足感や安心感を求めた時にそのあたりに探す習性が出来ているのであった。


▼▼正月休みにも盆休みにもボードゲームで遊ぶ習慣が出来つつある、かな。侵食率が高くて驚くし、嬉しくも思っている。連休時期だからこそ遊べる空間があって、けっこう楽しみにしているのだ。恒例の気分、前回の続きの気分、で遊んだ。盆休みの続きだ。次の盆休み、あるいは黄金週間あたりに、続く、んじゃなかろうか。






『曖昧フェイバリットシングス』

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▼▼隣のプレイヤーに「好きなもの」を質問する手紙を書き、ランキング形式で答えを貰う。貰った返答を手札にして「数字が高いカードを出した人が勝ち」というゲームを行なうゲームだ。素敵だ。無茶苦茶好きなゲームである。買う前から「スゴイぜ!」とは強く思っていたのだけれど、買ったあとも「スゴイぜ!」と思わされることになった。買う前は「発想がスゴイ!」という気分を抱いていたのだと思う。買ったあとは「形状がスゴイ!」という雰囲気になっていた。発想を具現化させている手腕が細かくて、ほんとうに素晴らしくて、驚いたのだった。想像以上にお洒落だったのだ。説明書に書いてあった「例えばこういう質問がよいでしょう」というような「例」にすら、なんだかよい……! と思わされることになった。「人生で最終的に目指すもの」的な題目による質問を受け、ランキングを考えながら、おお、これ、考えてるの面白いぞ……! って思わされるような場面もあった。いやあゲームマーケットでほんとに買えてよかったな。






『アンドールの伝説』

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▼▼シナリオ3(伝説3)に挑戦した。一昨日の続きである。ここまでは、シナリオ単独の中での「調整の巧さ」に魅せられていた気がするのだけれど、こうしてシナリオ3まで経験したことで、シナリオごとの「魅せどころの違い」に驚かされることにもなった。システムを一つずつ掴ませてくれる流れとシナリオを進行させる流れの絡ませかたが、ほんとうに華麗なのだ。無駄がなくて華麗であった。シナリオ3では「宿命」というシステムが絡んでくる。おのおのがシナリオの内部で異なる目的を持つのである。異なる目的の絡み合わせで一つの物語を作っているのがシナリオ3、とも言える。実際に説明上でも「このシナリオは複数回遊べる」と謳われている。ものすごくよいゲームなので様々な人と遊びたいのだけどシナリオ展開知っちゃってるからなー、と思うことが多かったけれど、シナリオ3のような流れがあるのなら、あんまり気にしなくてよいのかも、と思えるシナリオでもあった。よかった。引き運がよかったのか比較的あっさり解決できてしまった。

『ザ・ゲーム』『レジスタンス・アヴァロン』『フォーセール』『シャドウハンターズ』『横暴編集長 ニンジャ記念日』『ラブクラフト・レター』で遊んだ(薄墨色ボードゲーム会)

薄墨色ボードゲーム会

『ザ・ゲーム』

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▼▼前に置かれたカードよりも「おおきい数字」のカードが置けるところを二つ、前に置かれたカードよりも「ちいさい数字」のカードが置けるところを二つ、準備する。この四つの場所に、おのおのの手札を置いていくのだ。カードは、2~99までが重複せず存在している。フレーバーとしては、この数字が「悪魔」を意味しているようだ。98体の悪魔を封印する、という情景がゲームの背景になっているので、場に出したことにより、その数字の悪魔を封印できた、ということが意味される。十体以下まで封印してみせることが勝利条件である。洗面器の水に顔をつけて無呼吸に耐える、という意味の洗面器ゲーという呼びかたがあるけれど(?)、まあ、この手の雰囲気を感じる。出したくないのに出さなければならない。10の上に24を置かねばならない(11~23はもう置けなくなる)。ちょうど10個前の数字のカードだけは巻き戻せる、ということによる気持ちよさと、ルールの単純さが、非常に使いやすい協力ゲームだと思う。ぜんぶ出し切りたいと思ってしまうとけっこうな難しさであることだけが、若干、気になっちゃうかなー。敗北が決まっても笑える人達と遊ぶなら抜群のゲームだろう。






『レジスタンス・アヴァロン』

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▼▼脱落無しの正体隠匿ゲームとして名高い印象だ。アーサー王伝説が模されている。基本的には、アーサー王の配下として、クエストに旅立ち、成功させる、というのが目的になる。しかし、裏切り者が混じっているので、時々、クエストが失敗させられる、のだ。クエストにはリーダーで選出された数名のメンバーで立ち向かう。五人で遊ぶなら二名か三名で挑むことになる。任命された者たちは、裏向きに成功/失敗カードを出し、誰か一人でも失敗カードを出していたら、クエスト失敗になる。3人でクエストに挑戦して失敗したなら、そのうちの一人(もしかしたら二人?)が敵であり、2人でクエストに挑戦して失敗したならば、さらにそのうち1人がじぶんならば(さらには、じぶんがアーサー王側であるなら)、敵の一人は、その一緒に行った相手で確定、なのだ。しかし、その「こちらから見た確定事実」を、まわりの人達に信じてもらうことはできるのだろうか。というのが問題になる。細やかな要素が情報になるところ、短時間で終わるところ、敵の正体を知っているけれど明確には話せない(正体がばれると負けになるマーリンという役職がある)ところ、等々も好きなところである。最近出番多め。






『フォーセール』

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▼▼前半フェイズと後半フェイズに分かれる。最初に配られた初期資金を使って、競りにより場の「物件カード」を奪い合う、というのが前半フェイズの目的になり、前半フェイズで獲得した「物件」を使って──売り払って、場の「小切手カード」を奪い合う、というのが後半フェイズの目的になる。この二回の「奪い合い」における微妙な方向性の違いと、前半/後半で行なわれる奪い合いの回数が程よいところ(五人で遊ぶと六回ずつ)と、前半フェイズの競りでは「勝者が一人決まり、一番よい「物件」を獲得したあとに、残りは、時計回りによいものが配られる」という流れになるのに対して、後半フェイズの奪い合いにおいては「出した物件カードの、強さの順に、よい小切手カードが貰える」という流れになる、という対比的なところが、妙に好みだ、妙に楽しいぞ、と、思えるところだったりした。世の評判を眺めていると、大人数のほうが面白い感じになりそうだ、っていう雰囲気があるかな。競りが活性化しやすくなる、というのがおおきいと思う。あと、旧版か新版かで若干ルールが異なるらしくて、切り上げか切り下げか、というところのルールが異なったりもするようである。旧版のほうが競りに参加するリスクが減るので、競りが活性化しやすくてよいよ、という話も聞いた。初めて遊ぶゲームだった。あっさりできる競りゲーで素敵だ。






『シャドウハンターズ』

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▼▼対立するハンター陣営とシャドウ陣営、そして別目的のニュートラル陣営、の三つの陣営に分かれ、敵側を駆逐するゲームだ。ニュートラル陣営の人は、じぶんだけの目的を目指すことになる。盤上にはマスが6つがあって、サイコロの目により、止まるところが決まる。止まったマスによってカードが引ける。攻撃風味の黒カード、防御回復気味の白カード。正体を曝くための情報が少し得られる緑カードだ。黒カードはシャドウ寄り、白カードはハンター寄り、という効果も混じっていたりして、どのカードを引くか、ということまでが、推測のための情報になったりする。あのひとがあのひとを攻撃してるからハンターかなあ、とか適当に考えつつ、けれど、あんまり「正体隠匿」におおきな重きを置いてなくて、アクセント程度なのも、よいところだろう。隠れ続けたり、騙し続けたりすることが目的ではなくなりがちなのだ。最終的には全員正体なんて明かしつつの殴り合いになったりする(正体を明かすことで特殊効果が使えたりするし……)。正体隠匿、って要素を推しすぎると印象が変わってしまいそうなので、説明する時に注意せねば、と思えるゲームでもあった。世の評判が非常によいと認識していたわけだけど、納得の出来であった。






『横暴編集長 ニンジャ記念日』

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▼▼書籍の編集者となって、編集会議に出て、素敵な「タイトル」を考えるゲームだ。様々な実作品の題名が、上下に分割されて「札」になっているので、それらを組み合わせながらタイトルを作ってゆくことになる。拡張「ニンジャ記念日」を買ったので、加えつつ遊んだ。拡張「ニンジャ記念日」によって(これは特にニンジャとか記念日とかとは関係ないものである)基本セットより少しだけマイナーなタイトルを加えることが出来る。マイナーというよりは、往年の名作が中心になっていた基本セットと、現代的有名作品などのニンジャ記念日、というふうにも言えそうかな。笑いつつ、おお、と感心したりもしつつ、素敵なタイトル案をいくつも挙げていき、最後に、最優秀作品を一つ、選出した。大喜利ゲームの中では、現時点ではトップ3に挙げられる好きさかなー。






『ラブクラフト・レター』

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▼▼『ラブレター』というゲームの派生作品だ。クトゥルフ神話の作者であるラブクラフトの名が冠されている。ゲームも「神」「狂気」といったクトゥルフ要素がそこここに見られる。『ラブレター』よりも好きだ、という言いかたをすると語弊があるけど(まあたぶん嘘にもなるけど)、『ラブレター』より戦略性が程よく高いところと、『ラブレター』より特殊効果が派手になりがちなところは、明らかに好きだったりする。狂気効果を持つカードがいくつかあって、狂気効果カードを一回使うことで、狂気化でき(してしまい)、以後は、カードの「狂気側」の特殊効果が使えるようになる、という独自要素がある。そして、狂気側の効果はたいてい派手で強いのだった。無論、リスクもあって、狂気化したあとは、毎回、手番の前に山札をめくらなくてはならなくなって(正気度チェック)、ここで狂気効果を持つカードを引いてしまうと、即座に敗北してしまったりする。このあたりのバランス調整が非常によい、ような気がしている。