絶対と、断言と、「と思う」を付ける付けない

▼▼世の中に絶対なものなんてない以上、断言はいつだって誤りなのでは? っていう疑問を、改めて思った、というか、普段からぼんやり意識している前提な気がした。だから断言なんて結局は言葉遊び以上のものではない、とか思っている。誇張表現に過ぎん、とか思っている。結果として、世の中すべての言葉には、ぜんぶ「と思う」を付けるべきなのでは? という雰囲気すら感じているところがあったりするし、でも、すべての文章に「と思う」が付くべきだと言い切ってしまうとしたら、すべての「と思う」を省略しても結局同じだろ……、とツッコんだりもしている。
▼▼というのは、過去も未来も自明ではないからなあ(五分前仮説とか、科学のおける枚挙的帰納法の欠点とか、の話ってあるしなー(でもってそういう話大好物だ……))、あたりを指さしての、絶対と言えるものなんてない、という話だよね、っていうのも再認識した(これ以外にも言葉の使いかたってある気がするんだけど……、そこでは「断言」の扱いはどうなるんだろうねえ……、と予感した)。
▼▼とりあえず、人間は全称命題を自由に使いこなせてないっぽいよなあ……、っていうところから思考の再スタートを切った。過去も未来も自明ではない、に関する、別の切り口(のつもり)だ。
▼▼全称命題が使いこなせてない、苦手、というか、全称命題の境地に、人間の能力では実は辿り着けていないため、仮想的に扱っているのだ、手に余るのだ、構造的に支配しきれないものなのだ、っていう感じなので、割りと無理矢理扱ってるんですよねー、みたいな話で認識し直したのだった。あるいは、ちょっと無頓着に、もっと無造作に、使ってみせちゃっていいんでしょ、というか。論理的な全称命題のありかたにそんな振り回されなくても別にいいでしょ、っていうか。
▼▼世にあるすべての事象を、掌握し、語り尽くす、ということが、人間にはどうせできない、ということから、発言には常に「と思う」が付くべきではないか? くらいの意見を持ってみたわけだけど、「と思う」が付く付かないで線引きできるところって、ここだけじゃないのでは? というのも思った(さっきの予感のあたりに、再度、近づいた)。
▼▼判断の確率性(?)みたいな問題、とは別に、心の内外、人、個人の内外、みたいな境界線もまた、「と思う」という言葉によって、区別できたり、そして、この区別は「判断の確率性」とは別なんじゃない? って思えてきたのだった。
▼▼で、ここでも「心の内側と外側は、明確に線引きできない問題(境界線が曖昧になるところがある、入れ子構造とかもある)」という、似たような問題が出てきて、世の中の言葉に「と思う」を付けたほうがよいのか、省略してよいところはどこなのか、断言するのとしないことの違いは何なのか、ぜんぶに付けたらぜんぶに付けないのと同じになっちゃうんでは、あたりの話が可能になってしまって、でも、これは「判断の確率性」の話とは別なわけで、そりゃ混乱もしますよねえ……、って思ったのだった。