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『響 ~小説家になる方法』を読んだのと、常識破綻型

思考記 漫画記

▼▼『響 ~小説家になる方法』という漫画を読んだ。まとめて既刊五巻までだ。現状ではだいぶ楽しかった。好きな分野の考察が混じる物語はたいてい好きである。

響?小説家になる方法?(5) (ビッグコミックス)

響?小説家になる方法?(5) (ビッグコミックス)

▼▼図抜けた小説の才覚を見せるのだけど、社会性や常識というものが欠如しているというか破綻しているというか、驚くほど派手に軽視し無視してみせる主人公、鮎喰響、の物語だ。あるレビューでは「無頼」という言葉が使われていて、小学館での紹介文では「本能だけで動く」という言葉が使われていた。なるほどねえうまい言葉を持ってくるものだなあ、と思った。


▼▼至極真面目に、真っ正面から、社会性や常識というものを、無視した場合──理解や共感、納得および、服従、というものを示さなかった場合、人間の生きかたというのはどういうものになるんだろうか、というのは、けっこう頻繁に考える問いだ。人々が思い従う「皆が思っているであろう、そして、従うと有益であろう、事柄」というものを、無意識に、あるいは意識的に、無視した場合、その人物の挙動ってどういうものになるのだろうか。でもって、無視する動機って何になるんだろうか。
▼▼動物的本能、生理的欲求、といったものばかりが、前面に出てくる、ということでもない気はするのだった。思考も知性もない、ということではないわけで、判断や決意、知識、というものは、やはり関係してくるはずだろう。で、結局、個別の事例から常識的判断と同じものが導出されるのなら、結局は「同じ形」のものが出来上がるのか? 出来上がるのではないか? 常識と「個別の事例からの判断」ってそんなにかけ離れるか?
▼▼しかし、にもかかわらず、その判断や知識を「常識」が使われる空間と同じような範囲の中では使わない(社会、というような言葉が示す、おおきな空間を、脳内に、永遠に形作らない)ということが起きたりするんだろうか? 社会性や常識というものに向ける眼差しっていうのはどうなるの? 向けないのだ、と断言できるような精神の構造や意識の形状がありうるなら、なぜ、ありうるのか。