一画面の文章量と、じぶんの理解一チャンク

▼▼画面上の文字数と、認識や理解の一まとまり──一チャンクのおおきさ、って、関係しているのかなー、とふと思った。iPhoneで書きづらいとか思ってたのってこのあたりのせいなのかな、って思ったのだった。把握できる文章世界が狭くなるように感じる。目先の意味や論理しか見えなくなるような状況に陥りやすくなっている、ような。
▼▼けどiPhoneで電子書籍の小説を読んでても文章世界の把握が狭くなるー、って思ったことはなくない? って思って、思い直した。▼▼思い直してから、三つ思った。
1:画面上の文字数はフォントのおおきさの問題だろう。現状を省みてみたら、確かに読書アプリのフォントは結構小さくしていたのに、エディタアプリはまあまあなおおきさにしてしまっていた。だからまあここが問題なのでは? 改善できるのでは? エディタもフォント調整したら意外と書きやすくなっちゃうかも。
2:電子書籍アプリだと、小説を読んでること──読み切っていること、が比較的多い気がする。解説書か学術書は、電子書籍版だと意識せぬまま頓挫してたりもして、結局、電子書籍じゃないところで読み切っている傾向も少しあるような。小説は、物語の流れを追うような読みが主軸になりがちなので、意味や論理の把握量が少し減ったとしてもあまり気にならず楽しく読めちゃうね、っていうことがあるのかな?
3:しかし、画面の文字数と脳内の把握量量は、実際、関係してるんだろうか? 単なる慣れの問題とかじゃないの? ▼▼いや、うーん、でも、まあ、一頁に一文字の本を想定してみた場合とか、電子書籍でフォントを馬鹿デカくしてみた場合とか、これらを実際に試してみると、文章を追っていくの困難になる感覚があるような気はしない? ▼▼まあねえ。ただ一頁一文字は狡くない? せめて一頁一単語にすべき。▼▼まあ、書物の定型がもし「一頁一文字」であったとしても、世の中ぜんぶが最初から「一文字ずつ」だったら、うまく適合して「読める」ようになりそうとも思うけど。
▼▼実際にエディタアプリのフォントを小さくしてみて、文字数増やしてみたら、視界が拡がったような気分にはなれて、書きやすくなった、かのようにも思えた、けどまあ、新鮮味の気持ちよさと空間の広さの気持ちよさを錯覚している可能性は、かなりある。経験則的に言って、新鮮味にはすぐ踊らされるからなー。