世界は称賛に値する

日記を書きます

水曜日の始まり

▼▼旅行記や紀行文が楽しいなあって思った。好きだ。なので、普段の活動の記録も同類であるかのように書けばよいのではないかなー、と考えてみた。▼▼慣れて飽いて形骸化し膿み始めている日常、において、新鮮さを蘇らせてくれるような媒介が、あって、以前から、おおむね好きである。▼▼なので──せっかくなので、活動記録を残すのなら、新鮮味を見せてくれるような調整を加えて描いてみよう、とか考えてみたわけである。
▼▼航海日誌案もあって、現在位置と足取りの記録だろう。というのも楽しげであるな。
▼▼斬新なテンプレートを探してきてしまうところは癖だな。検証の余地はあるけど、実際問題、統計的に見たら、あまりよくないかもだ。見慣れない型を持ってきて斬新風に見せ掛けられればよい、という判断に陥る傾向が強まるかもである。慎重に攻めたい。
▼▼起床時刻は午前6時。勤務開始は午前9時。翌月シフトの準備を固めないと駄目な時期だ。調整できてないところがある。不安定な要素が多すぎるところはまあよい。もう諦める。できることをする。悲歎に暮れるほどの駄目要素ってほどではないしなー。

昨日読ませていただいたものの記録です。感謝と感銘の備忘録インデックスニュース。

→ 「改変可能な断片の集合を創作と言い張れ。  ハブとなる仕組みを作れ。  著作者や改変者をすべてタグで管理してもいい。  ミームの概念や、クリエイティブ・コモンズを援用してもいい。  すべての版を保存し、時系列で並べて差分を読めるようにしてもいい。その差分だけ Podcast のように配信してもいい。  iTunes のような読書があってもいい。  小説と戯曲と散文詩と定型詩と単行本と短編集とすべてを統括できるXMLのタグを作ってもいい。  これでやっと世界はひとつの物語になれる」

→ 「それは、私の行く末にありえる一つの人生の形だとごく自然に感じられるもので、だからその文章が好きだし、人として尊敬しています」

→ 「この感覚と問いは、とても重要なもので、ようは、玄馬さんは、  オレの愛する桜咲刹那は、こんなんじゃねぇ!!!  っていっているわけですよね。一言で要約すると。(だめ?)」

→ 「その人というメタで結ばれたデータは柔軟に簡単に抽出、再構成できるようになったらいいな。  何月何日とか指定すると移動した場所、見た景色、食べたもの、一言とかが時系列に並ぶ。  結婚記念日とかでも、誕生日とかでも、親が放り込んだ断片や友達が放り込んだ断片すらも繋がる」

→ 「再帰性をめぐってはきわめて面白い点もある。それは、文をいくらでも拡張できる性質が、自然数をいくらでも数えられる性質に似ていることだ。実際にチョムスキーは数える能力と言語能力とを同一起源とみている。この観点からは、たしかに再帰性というものは「とんでもない何かである」と感じられる。しかしそれは言語に特有という以上に「この世の知性というもの全体においてもっと普遍的な何かではないのか」とも感じられる。参照『生成文法の企て』」

→ 「さらに、リンゴやバナナをそれぞれ「A」や「B」の記号に対応させた場合、私たちなら、リンゴやバナナの現物から「A」や「B」の記号を選ぶことができるし、その逆もできる。これに対し他の霊長類では、リンゴやバナナを見て「A」や「B」の札を選ぶようなことはできたが、「A」や「B」の札を見てリンゴやバナナを選ぶようなことはいくら訓練してもほとんどできなかったと報告されている。これまた、シンボル性をもつ記号は人間にしか扱えないことの証拠とされることがある」

→ 「言語っていうのは、要するに「何か【について】語ることができるもの」のことであって、だとすると、シンボル性っていうのは、言語の本質というより、言語の機能そのもの、定義そのもの、むしろ言語そのものみたいなものではないでしょうか。  例えば、言語が、"言語"【について】語る場合、それは「再帰性」といわれ、何か【について】"存在の様式"を語る場合、疑問や否定の形が立ち現れてくるんじゃないのか。つまりぼくは、「シンボル性」と「再帰性」ってレベルが違うところの話なんじゃないかと、そういう気がするのです。「再帰」や「否定や疑問」はメタレベルなんじゃないかと」

→ 「これらが動詞なのか形容詞なのか名詞なのかと考えると、そう明白でもないようで、面白い。少し違うかもしれないが「石板!」とはどういう意味かという問いもあった(ウィトゲンシュタイン)。相当違うが「夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ・・・」というのもあった(『家族ゲーム』)。語なのか文なのか詩なのか。  植物にもし言語があったら形容詞だけなのかも、とか書いたとき、こうしたものを思い浮かべていたようにも思う」