世界は称賛に値する

日記を書きます

別にあなたに評価されなくてもいい。だって大切な人はちゃんと認めてくれているから。とか。

▼別に認めてくれなくたっていいさ、なんて考えてしまうことは時おりある。貶しや蔑みを向けられてもうまいこと「軽視」してしまえることがあるのだ。ともすれば「無視」さえできる。批難や軽蔑という攻撃をうまく受け流してしまえる、なんて言ってもいい。重視すべき言葉ではないから、という判断を防御壁にすることで、批難や軽蔑が持つ攻撃力を減衰させることができたりする、のだ。というような防衛を行なってしまう時、背後で同時に考えているのは、たいてい、だってほかのところではちゃんと俺の評価してくれている人がいるから、というようなことだったりする。経験からそう学習した。別にあなたに評価してもらえなくたってかまわない、とか思う時、おおむね「あなたの侮蔑は「見当違い」なものであり、ほかにちゃんと的確に判断してくれている人がいるから、ワタシはおのれの価値を低くしないで済むぜ」なんて考えてしまっている。ということを経験から判断してみた。だけど、と思う。だけど、この「別にあなたに評価されなくたってかまわない」はあんまり有効なデザインではないな、と思う。脆弱すぎるんじゃなかろうか、と思えるからだ。別にあなたにお金を貰えなくたってかまわない――ほかのところでお金を貰うことができるから、という構造に対しては、どうしても脆弱を感じてしまうのだ。簡単に言えば、依存があるからだろう。可能なら「お金は独りで稼ぐことができるぜ」とか言えるべきなんだろうな、と思うのだ。と考えていて思った。依存するところがおのれなら問題なくなるのだろうか、と思った。誰も褒めてくれなくたって俺は俺の「正しい」と思ったことをやるんだ――あなたが褒めてくれなくてもワタシが褒めてくれる――だから満足なんだ、というような心理は、ありうる。想像することだってできる。でも結局「逃げ道」を「おのれ」に託しているだけなんじゃないか、と思ったのだった。と解釈することもできるだろう、と思った。意地の悪い解釈だろうか。