世界は称賛に値する

日記を書きます

きついつらいいやだ、って噂を聞いて、駆けつけられるなら悪くはない

▼改札を抜けて、視線を向ける。違和感はなかった。新鮮の薫りすらなくなっていた。見慣れた街並みだなあ、と思ってしまった。と思えてしまった、とも言えるだろう。おおむね三回目からだな、なんて考えてみた。見慣れた街並みだと思えてしまう気配、は、おおむね三回目から匂い出すな、なんて思えたのだった。匂いはさらに濃くなっているな、とも思えた。歩みを進める。あえてきょろきょろする。初めて眺めた時の「新鮮さ」を呼び起こしたりもしてみた。おもしろかった。改めて「新鮮なもの」として「明らかに見慣れてしまったもの」を見つめ直してみる、という視線変換は好きだ。かなり好きなほうだろう。おもしろい。だから、遊ぶことができる。特に子どもの頃は遊ぶことが多かった。
▼胸中に視線を動かしてみる。わかりやすくわくわくしていた。楽しいと思い、嬉しいと思い、胸が踊っていた。なんて言えるような「精神の挙動」が確かに観察できた。誰かを助けること。誰かが「きついつらいいやだ」と感じそうだと思えることを、おのれの選択と行動によって叩き潰し叩き壊し叩きのめし、緩和させて変貌させて無化させてしまうこと。変化させてしまえるだろうと思うこと。可能性に過ぎなくても、何もできないわけではなさそうなこと。何もできないわけではないのではないか、と思えること。という現象のまわりに、おのれという人間の「意味」や「価値」をなかば盲目的に見てしまっていることを、知ってはいる。経験から理解してきてはいる。
▼誰かを助けられる、ということを、なぜか重要視してしまっていること。なぜか重要視してしまう人間であること。重要視してしまうがゆえに、達成することによって驚くほどの「おのれに対する信頼感」を得ることができてしまうこと。おかげで、依存しているとすら言えそうなこと。を、いちおう理解してはいる。いくらか認識してはいる。胸中に浮かんだ「歓喜」の源泉は、やはりそのあたりにあるようだった。相変わらずだな、なんて思う。苦笑じみた笑みを浮かべることもできた。けれどこの道でいいんだろうか、とは無論考えている。わからないからだ。人間は人間を助けることができる、ということを、信じてしまっていいのかわからないからだ。はっきりとはわからない。助ける、という言葉は、最終的には、究極的には、何処に対して使えば適切なのだろう、とは、考えている。