世界は称賛に値する

日記を書きます

概念先行型の正当化に対する違和

▼時おりは『概念先行型の正当化』をしてしまいそうになることがあるのだけど、最近は強烈な違和感を消しきれなくて、ほとんど続けることができなくなった。違和感を覚えてしまうのは、社会で認められている『概念』と合致するかどうか、が『正当化』の根拠になると思えなくなってしまったからだろう。例えば『いじめ問題』で言うなら、社会的視線で『いじめ』だと判定されるものが要するに『やってはいけないもの』なのであり、だけどこれは『いじめ』だと判定されるものなどではないから『やっても問題はない』のであって、だから俺には批難されるいわれなどない、なんていう流れに違和感を覚えてしまうようになったわけだ。おのれの行為にまず『概念』を当てはめて、真偽を問い、是非を問う、という流れに納得ができなくなったのだ。独りで判断すべきだろう、なんて思うようになってしまったのだった。正しいと『自分』が判断した――美しいと『自分』が判断した――だから選択した。というような理由に、ひどくしっくりくるものを感じるようになってしまったわけである。だから、おのれの行為に対して批難を受けた時なんかに、だけどこれは『社会的に批難される概念A』ではないから『批難されるいわれなどない』と言える論理は、ほとんど使えなくなった。強調表現に近いが、嘘にすら思える。