▼▼思考対象自体を、鶏や魚を捌くかのように綺麗に解体して出してみせなくても、思考対象の周辺を散策しながら、空模様や風の流れ、植物の薫り、街並みとざわめき、飛び交う鳥や蟲、などなどの雰囲気を描写してみせるだけで、素敵な言葉が現出したりする。非常に好きな文章だ、って言えたりもする、し、時に、至極素直に解体してみせたものより判りやすいものになってくれたりさえ、する。
▼▼実際問題、ある文章が、物事を、腑分けして「判りやすく掴みやすく咀嚼しやすく整理整頓して差し出してくれて」いなくても、当該思考対象にまつわることを、連想や経験談、余談、関連情報の中で、思うところのまま描いてくれてたら、それだけで、当該思考対象に関する認識が変質してくれること、が、あったりはする。勝手に汲み取って視線を変質させるところまで頭を進められたり、する。
▼▼直接的な「整理整頓」の話じゃなくても──間接的な「環境整備の描写」や「実体験絡み」の話であっても、というか、むしろ直接的な言及文でないからこそ、能動的に頭脳が働いてくれて、変に「判りやすく」提示してくれるより、自然に再認識機構を働かせることができる、ってことがあるように思ったのだった。▼▼逆に、あえて、食べにくいものとして見せてしまったほうが、想像や工夫の余地が出る──頭を使い始める余地が出るぜ、っていうような状況があるなあ、と改めて考えていた。
▼▼読解時に頭が働く型の言葉──読み手に整理を任せるような文章、というのを、最近異様なほど意識できてないなー、って思って書いた。投げっぱなしを怖れすぎだ。のわりに、じぶんでぜんぶちゃんと解体してみせるぜ、って覚悟も性能もあまりないし……。というのを改善したく思った風情であった。