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日記を書きます

2024年12月20日(金)仕事観のせめぎあい

仕事観

仕事という概念には、ずっと戸惑わされている。定義や価値があいまいだ。調べれば調べるほど、時代性や地域性をはじめとするかたよりが目立ってきて、一律の答えが出せない。暫定的な定義とか、とりあえずいまはこうしているだけの方法論みたいなものばかり、浮かびあがってくる。「こういった働きかたが正しい仕事である」なんて言える範囲はない。でも、そのせいで混乱しているとは思う。せめてもうちょっと自分なりの答えくらい見出したい。

仕事に関して、「あくまでいま時点ではこういうものが正しいとされている」という"暫定性"から目を逸らすことなく、「だからいまはこうしましょう」「今後のためになにができるんだろうか」と考えている話は、肌に合う。納得して楽しめる。というか、「正しい仕事(のやりかた)というものが存在する」という不安定な足場の上の話には、ついていけなくなることが多い。油断すると離脱させられる感じだ。

人文学や芸術の知見と、ビジネス的な諸要素を、うまく噛み合わせようと調整しながら振る舞っている人たちの話が、最近はだいぶ性に合う。たぶん、そういう"暫定性"から目を逸らさず話してくれるおかげなんだろう、って考えていた。

哲学、文学、歴史、批評、アートなどの空間では、「正しい仕事(のやりかた)というものが存在する」と断言されることは、ほとんどない。「目を逸らさない」「固着化させない」「個別性を削ぎ落とさない」「短絡的なメリットに踊らされない」「立ち止まらない」あたりの動きが称揚されているおかげだろう。結果として、そういった態度が、「仕事」に対しても適用されているんだと思う。そこが性に合う。

ぼくもまた、そういった暫定性や個別性を取り逃さない形での「仕事」というものを踏まえたうえで、実際的な「仕事」に向き合いたい気持ちがあったりはする。けど、難しい。ずっと混乱が収まらない。仕事にとってなにが正しいのか、定めきれず、足元がふわふわし続けている。現状の職場における、各位の「仕事観」の相違によって、なおさら混乱させられている気もしていなくはない。文句を言いたいわけでもないのだけど、難しいものだな、とはあらためて思った。

とりあえず仕事をする前提として

どんな環境であれ最終的には覚悟を決めてやれることをやっていくしかない、という意味では、「上司・同僚・部下がダメダメだからどうしようもないぜ」とかほざいて、他責的に逃げ回っていても、しょうがなくはあるんだろう。ぼくがなんとかせねば、と感じて動くのが、まあまあ適切なんだとは思っている。

が、世界や他人をほんとうに変えてみせる力があるなんて、そんなふうに考えてしまうのも、傲慢が過ぎるだろ、という意味では、自分がなんとかしてみせましょう、と自責的に判断するのも、ちょっとどうかしている面があるんだろう。

結果、「やれる範囲で、投げやりにもならず、傲慢にもならず、やっていくしかない」というふうに、手の届く範囲を区切ってみせることで、そういったせめぎ合いの中に、バランスを見出していくしかないんだと思う。あくまで「ぼくにできる範囲」だけに問題を限定する。それ以上は望まない。そういった謙虚さによって、矛盾を中和する。けど、それはそれで、「ぼくができる範囲を正しく見定められる」という無謀さが混じってくる気はするのであった。