世界は称賛に値する

日記を書きます

ごちゃごちゃリアリズム および自我の濃淡調整

▼▼ごちゃごちゃとリアリティを勘違いしているところがありそうだ。まあごちゃごちゃから来る生々しさ、というのもあるかとは思う(部屋の汚さから生活感が窺えるようなものか)けれど、でも、ごちゃごちゃを見せておけば生々しさが生まれるぞ、という判断は雑だろう。

(間)

▼▼著作権をまるで持たない人間にまつわる悲喜交々、というか思考実験、を、数日前に考えてみたのだけど、ほんとうに誰も困らずに済むのならば、著作権や所有権というものがない世界ないし社会があってもよいじゃん、という感覚はけっこうある。そういう世界が好きだ、って思えている。すべての言葉がフリー素材的というか、人類の共有財産、みたいな雰囲気の話だ。しかし誰かが悪用しうる、ということから、権利化なり規制化なりされているんだと思うけれど、そういう危険性と、言葉の有り様として人類共有財産的な認識がされてたら素敵だ、っていう話は、別問題だと思うし。
▼▼人類が一つの人格のもとで再構成されることに、素敵さを覚える、というのは『エヴァンゲリオン』において人類補完計画に賛同する精神構造だろう。社会主義的というのもある。
▼▼個人の自我というものを多少、否定的に見做す、という世界への眼差しが、心の余裕なり優しさや柔らかさなりをくれる、というところがあると感じている。じぶんを否定するのでもなく、肯定するのでもなく、世界に馴染ませる、世界との繋がりを強化する、というような感覚を背景にしてみせる――時々そういう目線を使ってみる、というやりかたや遊びかたが、好きなのだ。心のモードの選択肢にこういうのもあるとなかなかよい、と思って生きている。