ぼくを知って、理解して

 試験勉強が全然順調ではない。若干の諦めも混じってきている。意外と諦めてしまうほうである。強気や勇気ばかりでは全然ない。文章を書いている時だけ強気な部分っていうのが正直に見ると確実にあって、要するにかっこつけなところもあり、なので、読み手に誤解を与えているところもあるのではないか、と思って、不安というか、スンマセン! ちょっと誇張です! って思うようなことも、わりとあるようなないようなだ。
 演出でよい、むしろ演出せよ! 自己表現だけがよいものではないぞ! とかいう判断も、ちなみに、わりとある。思えるところもある。思える時もかなり多い。
 なんていうのは、主に大好きなところの森博嗣さんの話などによって理解できるようになった主張であり姿勢であり思想だ。このあたりに寄りかかったり眼を向けたりしていると、誤解を与えるくらいでよいのかなー、みたいなことも思え始めてくる。誤解を怖れすぎるのも違うでしょ? っていうか。あるいは、ほんとうの自分を知って欲しい、ということだけを考えてしまうことの浅はかさ、失礼さ、傲慢さ、無謀さ、とかだ。
 でも、そういうこと(ほんとうの自分を知って欲しい理解して欲しい)を求める精神があることも同時に、がっつりと、よく知っているわけで、嘘をつくこと、隠すこと、の、是非、とか、嘘をつかなきゃいいんかい、というツッコミとか、そういうことも、やっぱり考えてしまうなー。あと、ちゃんと自分の求めるものを求めて、あるいは伝えることの、大事さ、とかもだ。要はバランスである、と言っちゃうのは簡単だが、まあ、そういうことでもあり、そういうことでもない。ような気はする。
 自己表現と、自分と切り離して作品を作ることと、っていう区別、観点、による思考や試行錯誤なのかなー。これは。いや、なんか、こう書いてみてしっくりこないところもあるのだが、このあたりのような気は……いや、しっくりこないので、やっぱりなんか、あるんだろう。
 あとあと検証したり考えておいたりしてよい議題や論旨な気はするが、いやしかし、最近の自分の文章は、「あとで考えておきます」が多すぎますなー。何でもかんでもその場で答えが出せると思うなよ! それもまた傲慢ですよ! みたいなことを思うことも可能だし簡単なのだけど、えーと、それは、まあ、単なる正当化のような気がするので、結果としては駄目かもだ。しかし、正当化もまた重要である。人生では重要なはずである。そう思うような経験も沢山あったはずでしょう? という感じでぐるぐる思考が回転もしていて、えーと、どうすりゃいいんだ。
 知って欲しい、って何なんだろう、と改めて問うてみようと文章を書きはじめてみたが、問うようなことか? とも思ったので、まあいいや、ぼよぼよ考えよう。
 知って欲しいのです! ぼくがここにいることを知って欲しい、ぼくの存在が無駄にならないで欲しい→誰かに知ってもらうと無駄にならないことになりますよ、みたいな世界観は、あるだろうし、理解できるし、持っている。かなり持っているほうだと思う。普通に自然と理解できる感じで、普通に感じてしまう癖や習性はある。これが人間の本能とかかどうかは不明だ。人間に知性はそういう向きを向くようにできてるのさ、あるいは、現代の文化はそういうことを思わせるように人間を育てる感じなのですよ、なんて言えるかどうかは、不明だが、結構散見できるように思うし、沢山あるような予兆も感じたことがある気がするので、結構、平均値としてあるんじゃないだろうか。
 理解されると嬉しいんだよねえ、と改めて思った。自分のことととして捉え直して、思えた。普通に「嬉しいなあ」と感じてしまう人格だ。これはまあ、公言しておいてもよいと思う。というくらい、思考の基調、行動の基点に、ある。たぶん余程のことがなければおおきくは変わらないだろう。これが、誰でもそう、というわけでもないなら、ここは自分の特性だとすら思ってよい、とさえ思える。くらい強くある。まあでも、濃淡、強弱はあるのかなー。書いているうちに、人間の基本である、ってわけじゃー全然なかろう、って気がしてきたので、理解を求めるタイプの人間もいるよ、って言いたくなってきたが、そういう話じゃなかった、と思い直したので、ちょっと調整する。
 難しいな。
 すごく簡単に言うと、好きな人、敬愛する人、とにかくプラス方向の愛や恋が働いている相手に、「誤解されたい」と思うような人間は、いるのか!? というようなことを思っていたのだった。そして、いないだろう、と思ったのだった。絶対に、とかでは、まあない。人にはいろいろ事情があるだろうからだ。想像の及ばない範囲がありうるだろうことも想像できるからだ。しかし、複雑な過程でそれが反転したり複雑怪奇な出力を持つようになることはあるにせよ、(誤解されることこそが理解だ、とか)、とにかく、間違って認識されることだけが善である、というような価値観は、可能だろうか。
 いや、可能なのかな? 思考実験でもいいから可能かな? ってところまで書いてみて、思考実験の意味がわからなくなったので、ちょっとやり直す。整理し直そう。単に、想像してみるだけなら、まあまあできるわけで、ならそれは「思考実験ならできるけど」ってことを、普通は意味するのでは? 思考実験ですら無理そう、と現状で思っている自分の「『思考実験』の定義」って、だから、それでいいのかなあ? 違うんじゃないかなあ? みたいなことを思っているのがわかってきて、整理中である。
 誤解こそが善である、だから、すべてにおいて、おしなべて、誤解のみを、正確な理解からは遠ざかる方向を、求める、という姿勢、脳の動き、意識の動き、躰の動き、が、全然手に届きそうなものではない! って感じている。そしてその状況を、思考実験すらできない、と表現したく思っている。のだが、この要件を満たすだけの者ならば、まあ、思い浮かべられるような気もする。トレースできない、というよりは、実感、共感できない、ってだけだ。
 つまり、思考実験っていうのは実感や共感の問題なんだっけ? っていうことを考えている。のだな? 考えているなあ、と整理してみた。いや、ぜんぜんまとまらないので、ちょっと、言葉を尽くしてみようとしている感じだ。
 いや、そういう人間がいてもよい、いるのでは? あるいは、そういう姿勢があってもよい、とは思っている。駄目だ! とか、全然理解できません! 嫌い! なんなの! とかではない。特に、それを口にする人間、あるいは、ある面でそういう方向を目指す思考、姿勢はあるだろう、とは思っている。でも、それの背後には、理解を善とする認識、っていうかな。この言いかたも誤解を招きそうなので変えたいのだが、うまく言えないのだけど、理解は嫌悪! 理解は駄目! いっぺんたりとも理解はこっちこないで! って感じじゃないでしょう、って感じるのだ。完璧な理解はないと思うが、だからこそ、誤解をうまく扱おう、みたいな、理解から始まった誤解のありかた、みたいに思える。
 混乱してるなー。超楽しい。