ミーティングがあった。会議のようなことをするのかと思っていたのだけど、いわゆる説明会で、つまりほとんど聞くだけだった。まとめを聞くだけだった。無効、不要、というほどのものでは全然なくて、有用であったと思うところもあるけれど、重要だと言えるほどのものでは決してなくて、まして必要だとは全然言えないものだったと思う。が、もしかしたらこれがなければ失敗に陥っていたかもなので、あまり悪くは言えないような気もする。不要にすら見えても、やっておいたほうがよかった、って可能性はもちろんある。
という「不要かもだけどやるだけやっとけ、一応時間とっておけ」という視点が、ビジネスでは、驚くほど駄目なものなんじゃないかなあ、って思いついた。思うようになってきている。人生においても同じなのかもしれないが、そこはまあ、難しいところか。結構大事なような印象も持ててしまう。一応やっておいたことが偶然、幸運、運命的に、あとで活かされたよ、という経験則が思い浮かべられてしまうからだろう。これがよいことかどうかはわからないが、まあいい。また、同じ問題に目を向けられる日もくるだろう(運任せ)。
ビジネスでは、短時間で業績を上げることが求められる、と最近は判断してしまう。株主に、とかではない。なんていうか、原理的にそこが核心にならざるをえないような構造があるよなあ、と思えてしまうのだ。ゆっくりまったりそのうちうまくいくでしょう、という精神は、確実にビジネスを駄目にするものだと判断できる、気がする、って言ってもよい。このあたり、言葉を尽くせば、思考を重ねれば、もうちょっと説得力のある内容にできる気もするので、ちょっと考えながら書いていこうと思うのだけど、まとまるかどうかは不明だ。
ビジネスに対して、そう思うのは、限られた時間内でやれ、やらねば駄目だ! と思っているせい、な気はする。なんでそう思うのかな?
生活に直結している感と、かけられる時間が限られている感があるから、かなー。生活のよしあしに直結していて、かつ、人生すべての時間をかけるようなものではない、だから、ゆっくりやってると生活が困窮するし、かけられる時間が限られていて、成功への道筋もなんでもありってわけじゃない以上、うまいことやらないと、その道に乗っていくことはできない、みたいな判断の複合が、急げ急げ、っていう印象を持たせてしまうのだと考えた。
今この瞬間だって、明日だって、「生活」はあって、そしてその、今この瞬間の生活も、明日の生活も、ビジネスの影響下にあるのだから、今日の、明日の、ビジネスが駄目ならば、今日や明日の生活だって危うくなるよ、っていう意識──
と、
二四時間仕事するのは駄目駄目なので、つまり数時間かよくて十数時間で、今日と明日の生活を快活にするビジネス、を具現して実現して回さないと駄目なんだから、想像すると、結構大変じゃない?
というような意識が、
あるので、このへんから、短時間で業績を上げないと駄目なものである、という判断を導き出しているのではないか、と思った。
とにかく時間がないものだ、っていう意識だ。繰り返すけど。
なので、無駄なことはやってられない、って話になる。そして、無駄っぽいと思えることも極力排除したほうがいいかな、って話にもなる。これは、無駄じゃないと思えることを全部やる時間さえないのに、という意識も関係してきているか……。
ミーティングというか説明会は、無駄とは言わないし、無駄じゃない可能性だって全然あったけど、まあ、無駄の可能性もあったと思う。あってもなくても一緒だった可能性は十分あった。だから、えーと、意味なかったんじゃないかな? っていう感じのことを今は思ってしまっている。気がしたが、どうだろうなー。