世界は称賛に値する

日記を書きます

描写して、見て欲しいこと、説明して、納得して欲しいこと

 描写しよう、と思う時の脳内や思考の動きと、説明しよう、と思う時の脳内や思考の動きは違う。ここを基点に「描写」と「説明」を考えてもいいかなあとか閃いた。納得してもらおう、とすることと、見てもらおう感じてもらおう、とすることの違い。
 君に、あなたに、見て欲しいもの感じて欲しいもの、と、理解して欲しいもの納得して欲しいもの、っていうのがある。別々にある。重なり合っていることもあるけど、代表例を考えたら、別のものが出てくるから、それぞれに重心の違いのようなものがあるのは間違いなくて、つまり、両極があるんだろう。その両極。その両極を、まあ、見るようにしてみてもいいのかなって思ったのだった。
 今は説明をしている。しているつもりだ。これは説明文である。
 日記で鍛えられてきたのは説明文であって、描写文ではないよなあ、と思うことはたまにあって、これはなんか、結構凹む。描写文も鍛えたい、っていう意識があるのだ。小説を書きたい、という望みが、ずっとどこかにあるからだろう。
 小説を書くこととか、物語を書くこととか、言葉を書くこととか、いろいろな人がいろいろなことをいろいろな観点で言っていて、ふーむって思う。小説が、物語が、言葉が、好きだから、そのそれぞれが、とても楽しいものに思える自分なのだけど、本当はもっと沢山の、特別さ、みたいなものがあって、小説ってすごいよ! っていう話が魅力的に聞こえるなら、その魅力が、ほかのものにも同じように──全然まったく同じように、あると思ってもいいんだろう、ということは考える。ヒップホップもダンスもアニメも音楽も車もテレビも、人間の営為なら、あるいは人間の行為でなくても、大自然の驚異でも、とにかくなんでも、すごいんだろう。その凄さを見つけていきたいっていうのはやっぱり思う。それが、なんていうか、最上の人生なんじゃないかくらいのことは言いたくなったりもする。いや、過言なんだろうけど、言いたくなるくらいの、楽しさが、見える気はするのだ。