世界は称賛に値する

日記を書きます

慣れて、敬意を忘れて、したり顔(数日前に考えたことの整理し直し)

▼▼勝手に慣れて、敬意を忘れ始めて、したり顔を浮かべ、わかったようなことを語ってしまう、ってことが、駄目すぎる、って結構よく考える。▼▼誰かのことを手前勝手に判断して理解して裁断を下すような権利がオマエにあるのかよ、って思ってしまう、って感じかな。▼▼素晴らしい業績や功績の人は沢山いる。現時点では理解できない段階の素晴らしさだって沢山あるはずで、油断してんじゃねー的なことを思うのだった。▼▼面倒臭がって丁寧に理解することを放棄している、っていうなら全然駄目だし、見栄によるものならばなおさらでしょう? ▼▼出逢ったばかりの新鮮な頃は、臆病と謙虚を心にもって丁寧に視ていることが多いのに、情報が増えて慣れてくると、あっさり油断して、さもわかったような顔で、目線で、賢しげなことを言ってしまう、ってことが、あまり好きじゃないのだった。▼▼確かに知らないことは不安で、知っていることは時折有利で、いくらかであれ、知っているのだよ、と言ってみせることは、防衛に繋がりうるのだろう。けどでも、減らしたい。殲滅したい。▼▼思考してて混乱したので、軽い具体例で問題意識を整理しておく。▼▼哲学者ウィトゲンシュタインを詳しく知らない人、と、相手が著書を偶然読んだか何かで、ウィトゲンシュタインの話をするような場面の時に、あのウィトゲンシュタインって人はねえ、って、理解者のように、支配者のように、語るのが──時折語ってしまうのが、駄目だなあ、と思うのだった。丁寧に読んでいるような人だって沢山いるってのに、漠然と若干の情報を持っているだけの自分が、正しい答えを知っているかのように振る舞ってるんじゃねー、って思ってしまうのだった。最近の反省点だ。