世界は称賛に値する

日記を書きます

金曜日の始まり(彼岸/凝視/金曜日)

▼▼流石に今朝は時間がないなー。寝起きでだらけてしまった。若干の睡眠不足がなぜか続いている。寝起きの時に複雑な視線や伏線を持たせようとすると結構な確率で敗北してしまうな。思考や頭脳が回っていない、と言ってみせるのは簡単なのだけど、具体的に問うなら「何がどう」なんだろう。普段との違いは?──読み返した時に理路の不通に気づけるのはなぜ? 概観や俯瞰ができなくなるから? つまり全体像を見失うから? いつも何がずれるんだろう? なんていう問い周りを考えていた。眼前の状況と話に囚われてしまう。別によい、と思えるなら素敵かな。囚われていても後悔しないような姿が取れるなら文句はない。不調しかなくなっても楽しくやっていける道とかやはり考えたいな。
▼▼起床時刻は午前7時。勤務開始は午前9時。
▼▼ほのかな気落ちとささやかな気負い、のようなものが漂っているようだ、なんて感じてみた。あせりすぎか。現状だけを見過ぎなんだろう、と想像する。視線を伸ばしておこう。遙か遠くを緩やかに見つめてみる。可能な限り遠くを見てみるのがよい──見てみるのはよい。遠くって結局どこなのだろう? なんて疑問文が必要になるのかな? だって遠くを君は知っているでしょう? 的な対話が思い浮かんだ。話がすり替わったな。というよりすり替えた? 寝起きや風邪で思考性能が落ちて、巧く俯瞰できなくなって、全体が見えなくなる。なら、対策はどうしようかなー。対策は二つだろうか? 俯瞰を可能にしうる道のりの模索と俯瞰を不要としうる道のりの模索。不調を消して好調を呼び寄せる策、と、不調を活かして好調のようにしてしまう策。直接的解決と間接的解決。実際欲しがっているのはどちらなのだろう? 意味や価値を感じてしまっているのは?

■以下、備忘録的ニュースサイト的忘れないようにしよう的言葉なのでした。

→ 「「できるのに、やっていけないの?」というPostを見掛けた。 能力や合法性というレイヤーと、倫理とか道徳のレイヤーの差が分からないか、単に倫理や道徳は無意味と挑発しているのか。 倫理や道徳なんて無意味ジャン、と挑発的な態度の人間が増えると、それは成文化されて、さまざまな面でコストが上がるだけということに」

→ 「この、一つの文と次の文との間にある、キレがあって自由な動き(細かくて、予想不能な方向転回)を一つ一つ追ってゆくのは、とても面白いのだが、同時に、とても疲れる。一つ一つの文を追っている時の、イメージが細かく動く感じと、あるエピソードのひとまとまりを読み終えた時に記憶し把握している、そのエピソード全体が「こんな話だった」という大ざっぱなイメージや内容とは(細かい展開や動きをすべては憶えられないので)、常にずれていて、しばらく先に行ってから、また戻って読み返してみると、自分の記憶のいい加減さに気づく」

→ 「しかし、ここでは、主体が平板化しているのではなく、あたかも平板化しているかのように振る舞う(演じる)ことが(環境によって、他者-象徴的なものの貧しさによって)強制されているのだ、ということが言われている。平板であることが、演じられている。「演じる」とはつまり他者(大文字の他者)に向けた行為であり、一見、動物的反応であるかのような行為(キレる)が実は他者(超越的な存在)に向かって捧げられている。だから、それはきわめて複雑化された主体ということなのではないか」

→ 「倒錯症者は、言い得ることはすべて言い、見得るものは全て可視化し、言えるものと見えるものによって滑らかで穴のない世界を構成しようとする。つまり、言い間違い、失策、躓き、裂け目、出会い損ない、としてしか可視化されない「無意識」を排除し、隙間のない可視的な世界を構成する(それによって他者をハリボテにする)。ヒステリー症者は、そのような世界のありようそのものに対する根本的な懐疑(拒絶)のなかに存在する」

→ 「とはいえ、倒錯とは、人間が、自分自身の知力によって(つまり去勢の徹底によって)人間であることから脱出しようとする試みであるとも言え(例えば人工知能への欲望など、倒錯の最たるものではないか)、それはそれでとても強く惹かれるものがある。倒錯的欲望の、機械のような正確で単調な反復、あるいは、自動的な進行、に対する強い「あこがれ」が(幻想として)ぼくにはある。しかし、そこにも、機械の作動ノイズとしての現実界は生じるように思われる(そもそも倒錯とは、世界を記述で押さえ込むことで、回帰する外傷-現実界-悪を無害化しようとする戦略である)」

→ 「そもそも金井美恵子の書くような長く複雑な文章は人間が現在進行形で頭に浮かべたり喋ったりして意識的に捉えられる種類のものではないのです、少なくとも話し言葉などでは断じてない。この男にしても物書きというわけでもないので、書き言葉としてもあり得ない。とすると、やはり、男が語っているのではない。ラスト三ページは改行もないし句読点もない(最後の最後だけは句点で終わるが)わけで、正常な人間はそんな不自然な語りをしない」

→ 「彼が素敵な本を読んで、この気持ちを今すぐ誰かに伝えなくっちゃと思って、それで私に「カミュの『異邦人』っていう小説を読んだんだけどね、いや、読んだことあるかもしれないけどとりあえず聞いてほしいんだ。なんてったってママンなんだぜ!」と電話をかけてきたような、そして彼の感想は、聞いた人が読んだことあってもなくてももう一度『異邦人』を手にとりたくなってしまうような、読み終えたら私も「この間読んだばっかりだろうけどとりあえず聞いてほしいんだ。『異邦人』がね!」と電話を返したくなるような、そういう相手がいてくれるんだっていう、青春時代の私の机にそっと置いておきたくなる本なのです」