世界は称賛に値する

日記を書きます

信の在り様

『で、みちアキはどうするの?』
――「信」の在り様

たとえばさ、ぼくが公園で空き缶を拾ってくるよ? で、あなたに「今からコレがお前の神様だ。毎日20分ほんとうに心からコレにお祈りしなさい。サボると死ぬ」って言っても、んなワケあるかーッ!!でしょう? でも、ぼくの思う「信じていないナンセンス」ってのは、つまりそういうレベルのこと。まったきゼロってこと。イチもニもなく、薄紙一枚差し込む隙すらもなく、「そんなこと絶対ありえない」。故に行動に至れない。でもさー、初詣や葬式に行くときの気持ちって、そういうものとは違うべなー?って思うんですが。つーか靖国に首相が参拝するなだの分祀しろだの笑うよなー。おまえら英霊とかいるって信じてんのかよ?いったいナニをギロンしちゃってるの?っていつも思う。

付き合いや世間体で葬式とか行ってんのかな。だとしたら、少なくとも、そうではない人たちに失礼だし、それよりなにより、もしももしも神や霊魂が実在しちゃったりするんなら、超ちょうチョウ失礼どころの騒ぎじゃ済まされねー、と思う。ぼくですか? ぼくは、そういうのは、いるともいないともわからん、という態度です。ただね。もしいるのなら、届け。いつもそういう気持ちで、手を合わせておりますよ? 神社やお寺にお参りとか、自分にとってとてもだいじな人が亡くなったときの、その霊前とか、そういう感じじゃあないですか? そしてその時の気持ちは、「空き缶の神様」とは明らかに違うものではないかなー、と思うのだけど。

▼信念とか信仰関係の観念が整理されていて、素敵な判断だなあ、と思った。触発されて思考したので書いておこう。関係性は微妙かもだ。あまり巧くは絡められなかった。