世界は称賛に値する

日記を書きます

逆転経験があるから、その可能性をまず想定する

▼同じ現象を、現在の視点、現状の背景、に寄り添う形で『きちんと納得できる姿』に整理し直したものが、脳裏に描かれている『理解したもの』なのだ。と『理解』というものを整理している。▼違う視点で見つめている。違う背景を背負っている。だから、現象は同じでも、価値や意味は違って見える。誰かと意見が食い違ってしまう時、最初に考える可能性はおおむねこういうものだ。視点と背景が違って、経験が違って、抱えているものが違っている。違いはこのあたりに存在している可能性が高い、と判断するのだ。判断の根拠の源流はもちろん自分の経験の中にある。▼おのれの中ですら、時には視点や背景が切り替わることがあった。情報の変化が幾度となくそういった経験をもたらした。ひどく混雑した電車内で騒いでいる自分の子どもを注意しようともしないマナーの悪い男は、別の情報を加えれば、突然奥さんが交通事故にあって自失のまま病院に向かう旦那さんと落胆したお父さんを励ますため泣くのを我慢して無理矢理笑うけなげな子どもになった。情報の違いは、価値や意味に対する物凄い影響力を持っている。ということを明らかに経験している。だから、その可能性を考える。▼だから時おり考えるのは、背景や視点の違いを意識しない人というのは――背景や視点の違いを浮き彫りにして整理してから語ろうとか考えない人というのは、視点や背景の変化によって価値観や世界観を揺さぶられた経験がないのかなあ、ということだったりした。ないのか、あるのに敷衍しないのか。