世界は称賛に値する

日記を書きます

工学部・水柿助教授の逡巡(森博嗣)

工学部・水柿助教授の逡巡 (GENTOSHA NOVELS)

工学部・水柿助教授の逡巡 (GENTOSHA NOVELS)

P.36

「もしかして、四文字おきに読んでるんじゃないの?」水柿君は、須磨子さんのあまりの速読に、こうきいたことがある。
「そんな読み方したら意味がわからないじゃない。違うよ、四行おきに読むの」須磨子さんは答える。こういった場合の彼女、なかなか頭の回転が速い。
 学会の開催期間も終わり、札幌の夜も今日が最後という夕方頃、ようやく水柿君はその小説を読み終えた。もちろん、彼が思っていたとおりのトリックが現れ、予想どおりの解決があったわけである。
 自分の考えた解答が正解かどうかを見たくて読んでいたのか、というと、全然そうではない。
 そもそも、解答を見る必要などない。自分で思いついたものが、正解かどうかを確かめる行為に、水柿君はまったく興味がない。何故ならば、それが正解かどうか分からない状態とは、つまり正解ではないことに等しいからだ。自分で正解とわからないようでは、考えた意味がない。
 ものが理解できたときの納得とは、気持ちがクリアになり、風が吹き抜けるような爽快感があるものだ。したがって、それを思い至った瞬間に、正解だとわかる。そう感じられるのが普通である。
 それでも、万が一解答を見て、それが自分の行き着いた正解と異なる場合は、(さらに強い風が吹かないかぎり)その解答の方が間違いだと思えば良い。それだけのことだ。
 つまり、人と意見を合わせることに価値があるわけではない。自分の理解と納得がすべてである。だから、もし、自分の思いつきが非常に良いものであれば、解答を見る行為には、もはやどんな価値も残されていないと判断できる。可能性があるとすれば、自分にはない、とんでもない才能の発見か(これは滅多にあるものではない)、そうでなければ、自分に対する不審であり、間違っているかもしれない、という不安であろう。悪いことでは決してない。人間の発展の歴史は、個人や社会の不審と不安を解消するための積み重ねだったからだ。その動機は美しいとさえ思う水柿君である。ただ、彼の場合は、他人に関わりたいという社会的な回路がほとんど機能していないため、自分が良ければそれで良い、という単純な意思がおそらく最優先されているのだろう。