世界は称賛に値する

日記を書きます

経済学という教養(稲葉振一郎)

経済学という教養

経済学という教養

P.7

微積分は世俗的ニーズによって生まれた(という側面もあるが……)

 もっと踏み込んで考えてみると、科学とは、そこにある自然をただぼーっと眺めてありのままに描く、なんてものじゃなく、あれこれ人間の側でアイデアをひねくり回して考えて、そのアイデアの妥当性を、自然に積極的に働きかけながら試していく、という作業である。つまり人間の側で何をどこまで思いつけるか、が勝負だ。ところが人間てのは所詮は社会的な問題だから、自分の生きている社会の限界の中でしかものを考えられない。そういう意味でも、人間の営みとしての科学は、社会的に制約されたものなのである――となる。いわゆる「パラダイム」論だ。
 科学の社会的被制約制について極端な例を挙げれば、古代ギリシアやインド、あるいは中世イスラムでは数学がかなり発達したが、微積分の概念には到達できなかった。これは別に、この時代の人々が愚かだったからではない。必要を感じなかったからだ。微積分の開発が近世ヨーロッパで行われたのは、弾道計算などの世俗的、実用的ニーズとの関連が大きい――といった感じだ。つまり、科学は研究者の純粋な知的探究心によってのみ動かされているわけではないのである。
 とにかくこんな風に疑い出すと、科学というのは見た目より、建前よりもずっと不完全な代物なんだ、という結論に導かれる。その辺でやめておけばよいが、そこからさらに踏み込んで、科学というやつは人間の知の最前線としてでかい面をしてのさばり、ひょっとしたら科学者の間違いや思いこみかもしれないことを「真実」と称して世の中をだまし、みんなを洗脳しているのだ!――とか、そもそも「真実」なんてものはなく、突き詰めれば科学とは思いこみだ!――とか、邪推を重ねればここまでいくこともある。