世界は称賛に値する

日記を書きます

馬鹿が扱うから馬鹿に見える

 正しいって何だよ! 正しいものなんて結局どこにもないじゃん! いくら世間で《正しい》とか言われてるものだって、丹念にその根拠をさかのぼっていけば、結局は偶然とか慣習とか文化とか先入観とかに行き着くだけじゃん! そのへんのやつはすぐに「これが正しい!」とか言いやがるし、言いながら自信満々の表情を浮かべちゃったりもしてるわけだけど、結局のところ、あいつらにだってちゃんとした不動の根拠があるわけじゃないんだよな。ていうかあいつらの場合は盲信してるだけじゃね? と、かつての私が《正しい》という言葉に対して感じていた不信は、おそらく、そういった不満系の思考の中から少しずつ生成されていったものだったのだと思う。でもそれは間違いだった、と今なら言える。つまり、だから《正しい》なんてものは糞喰らえだ、とか、だから《正しい》ものなんて本当はないんだ、と結論してしまうのは大きな間違いだった、と今ならばはっきり思える。なぜなら、私が抱えていたその不満は結局、単なる『使い方の問題』に対するものだったからだ、ということを理解したからである。たとえば拳銃は、殺人行為に使うことができるし、実際に使われてもいるわけだけど、そのことを根拠にして、だから拳銃なんてろくなものじゃないぜ、と結論づけてしまうのは、大きな間違いだろう。それと同じことだ。馬鹿に扱われているせいで道具が馬鹿なものに見えてしまっているのだとしたら、その責任は『扱われているもの』のほうに求めちゃ駄目なんじゃないか、という話。