世界は称賛に値する

日記を書きます

朝は寒空

▼朝。冷気に塗り固められながら語り合うのは楽しかった。愚かでもあった。けれど楽しかった。おおむね『信頼』についての話をしていた。論題を簡略化するならおそらくは信頼の話だったのだと思う。実を言えば全然信頼できていないということ。維持や改善のために誰かを重要視しなければならないことがあって、だとするならば、誰かによる失敗を排除するためにはどうすればいいのか、という疑問。余裕を持たせておくこと。保険をかけておくこと。つまりは、切羽詰まらせないこと。けれど無論、人生は余裕のあることばかりではなくて、ぎりぎりのところで誰かを重要視しなければならないことが、やっぱりある。ならどうすれば信じられるのか――信じるためには何が必要で、必要なものはどうすれば得られるのか。賭けが必要な状況に陥らない、ということまで考えつつだ。

夜は談笑

▼夜。朝ほどは冷たくはないように思えた。閉店後飲み会に向かう。開催理由はわりと不明瞭だった。到着した時にはすでに談笑が始まっていて、挨拶を返しながら隙間をぬって腰を下ろし、注文する。思いのほか昨晩の影響が濃いようだった。酒が抜けるのは速いほうだ。たぶん酔うのも速いほうだろう。酒は嫌いではない。ただし、積極的に好きだとも思っていない。普段は飲まない。恋愛関係の相談を聞いていると、単なる人間関係の話にしか聞こえなくなることが多い。むしろ、恋愛関係の時は真剣に考えるのに、人間関係についてはなぜあんまり考えていないのだろう、と思ってしまったりもする。恋愛関係の問題についてきちんと考えるには、人間関係についての基礎教養が必要なんだろうと最近は思う。礎がきちんとしていないと脆くなる、という思考だ。真剣な談議がやはり好きだ。

脆弱と強靭と、呼び寄せる文脈の自動化

▼人格の脆弱と強靭についてはずっと考え続けているけれど、判定基準に対する懸念や怪訝は消滅する気配がない。動じないことを、例えば『強靭』だと判定することがあるのだけど、しかし、実際のところこれは妥当な判断なのだろうか、と考えてしまうのだ。結局は『背景』や『文脈』に依存するのだ、と指摘してみる。しかし無論、それくらいは考慮している。だから問題は違うところにある。▼言うなれば、背景や文脈に依存するものであると判断しているにもかかわらず、背景や文脈を『強靭』や『脆弱』に見えるよう誘導してしまう――という短絡的性質について考えているのだ。例えば、蜜柑が美味しいかどうかは生産場所や収穫時期による。なのに、蜜柑の美味しさを問おうとするとなぜか『適した生産場所』や『優れた収穫時期』を盲信してしまう――結果として『蜜柑は美味しいものだ』と判断してしまう。判定の持つこの性質がどうしても気にかかるのだった。