世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年03月14日(木)出来ていないらしい木曜日

耳の痛いヒアリング

打ち合わせやヒアリングの詰まった一日だった。いくつかの話を聞いた。聴く業務はあいかわらず楽しい。聞いたことを資料にまとめる必要もあったのだけど、あわただしかったので、ほとんど動けなかった。週末に少し動きたいところはある。完成させるところまで、とまでは言わずとも、せめて下準備は整えておきたいかな。

話を聞いている中で、耳が痛い話がふたつくらいあった。ためにもなったが、そのぶん、反省点や改善点を突きつけられるような話だった。ひとつは、常に今日やれることを今日中に終わらせておかねばらならないシチュエーションの話(けっこうヒマだなと今日思っていても翌日突然忙しくなって「終わった」と思わされる業務環境の話)の話で、もうひとつは、ビジネス思考を指南するための打ち合わせにおける、報連相やコミュニケーションといったビジネスセオリーの落としこみの不備の話(ビジネスにおいて、至極当たり前の考えかたであって、勘所をしっかり押さえて動けていないと、結局、うまく働かないことがあるよという話)だった。

業務について、配分の振り分けかたや理論化の塩梅の最適値は、あいかわらずわからない。どれくらいが手頃な範囲なのか謎のまま動いている。過剰な負担を当然のように受け止めるのはあんまりよくない、とは思ってはいるものの、だからといって、滑らかすぎてなんの軋轢もない状態が適正だと判断することが妥当だとも思ってはいない。ほどほどの負荷がかかり続けていないと人間は弱体化するという話は理解できるし、同じところに居続けることは移りゆく世の中では相対的に後退を意味するという話も想像できる。その中での"適正なバランス"なんてほんとうにわからない。それでも、選択肢としてあたえられてしまえばラクなほうを選んでしまう習性はあって、そこに、釘を刺された気にはなった。というか、大変な状況や出来ていない状況の話を聞いて、自分自身に対して、多少は釘を刺してほいたほうがよいな、とは思わされた。

2024年03月13日(水)普通のことも書きたいらしい水曜日

普通のことも輝いている

さんざん語られ尽くしたような紋切り型の問題意識・問題提起であっても、ぼくにとってそれが急に輝き出す瞬間は、もちろんある。日記にはまあまあそれを書けている認識だ。誰かにとってごく平凡なありきたりの話を書いていたとしても、ぼくにとっては、いままさに、活性化された問題というか、血の通い始めた問題というか、様変わりする機会をあたえられた問題だったりする。その有り難いタイミングを日記として記していると言ってもよい。たまに、なんでこんなフツーのことばを連ねているんだろう、といった心持ちで日記を書いていることもあるため、こういった構造がときには背後にはあるんじゃない?と考えて、書いてみた次第だ。ただし自己正当化の側面もあるとは思う。調整はしたい。

2024年03月12日(火)学び直したいらしい火曜日

学び直している

既存知識の学び直しが多い日々だなと感じている。わかっていると思いこんでいた事柄について、実はぜんぜん理解できていなかったと痛感させられて、あらためて知見を構築し直している、みたいな状態が、最近は目立つ。というか痛感させられている。ぼくが、漠然と物事を理解し続けてきたことによる顛末、ではあるんだろう。おとなになったのちは、きっと、未知のこと新たなことに出会いながら知見を深めていくことになるに違いない、といった都合のよい想像もしていたため、実際はこんなふうにやり直しに時間を使うことになるのか、と思ったりもしている(別に不満の話ではない)。効率の話をするなら、そうならないように丁寧な理解を構築し続けてこれたらよかったんだろうか、とも思うが、まあ難しいか。「適度な理解」なんて厳密には謎すぎる。

指南書や入門書を読むことで、「これってこういうことなんだ」といった"ぼんやりした認識"を手に入れたことは、多々あった。掌握できたという気持ちすら持っていた。

が、そういった「理解したやりかた」を、実際に適用しようとしたときには、行き届かない隙間が、どうしたって生まれる。徹底的な細部を持つ現実の出来事と、包括的で抽象的な理論が、そのまま噛み合うことはほとんどない。歯車の微調整が求められる。この微調整の手管が、たとえば読書では、大変つかみづらいんだろう。ほんとうにつかみづらいものなのだ、と、痛感させられる最近の日々ではあった。

ちなみに、この、「理論を学んで、現実に適用としたときには、歯車の微調整が必要になるものだ」的な注意事項のことも、わかったつもりにはなっていた。わかったぞとは思っていたが、やはり、わかっていなかった。思ったよりも何倍も足りなかった。ここも理解できていなかったんだな~と二重に思わされている。さらにここに付け加えるなら、こうして、いま、壁にぶつかって、今度こそ「足りなさ」を理解できたかのような気にもなっているわけだけど、こうした再度の理解が、適度なものかも、もちろんわからない。いつかわかるというか、どこかで答えが出るようなものでもないのだとは思うけれど。

2024年03月11日(月)構造かのように読み取ったらしい月曜日

構造的に読むようにしてみた

構造的な読書を意識するようにした。「構造的」という言葉はビジネススラングのような側面もあるようなので、適切な言い回しかあやしいのだけど、ともあれ、読書などで「一文」を読んだときに、そのことばの示すところ――現象や構造や意味、を、丁寧に受け取り、同時にまた、背景となる全体像を思い浮かべながら、そのうえで、「受け取ったもの」を、どこにどう配置するか、どんな重みづけをするか、論理の順序などを考えながら読むようにしてみた。

文章を読み終えた直後、あるいは、説明を聴き終わった直後、丁寧に固められた理解のうえで返答してみせる人間が、まわりにいたため、なんでそんなことができるの?こういう頭の使いかたしてんのかな?と考えて、真似してみた次第だ。同じやりかたかはわからないが、このルート、このアプローチで、似たようなことができるんじゃないかな~、と思えるところはあった。新しいものに目移りしてるだけで頭つかってねーなこいつ、とおのれの頭脳に対して思った(気づいた)ところもあった。今回、読みかたを変えてみたことで、知性的な手応えが明らかによくなったせいもあって、よりいっそうそう感じられたりもしたかな。読み飛ばしていたし、認識の整理も手を抜いていたと思う。

文章を四つの観点で見て取っている

現状について、読み取りフィーリングを簡易的に記録しておくけど、いまのところ、「主/補の関係(主軸と解説文の関係)(しかも2段階ではなく数段階あるイメージ)」「上下・前後関係」「決め台詞」「お題目」の4要素が、目に留まっている感覚がある。

主/補、つまり、メイン/サブの関係は(重なり合うにつれて、ごちゃごちゃしていくところは、まああるものの)わかりやすいところだ。主題と解説文と言ってもよい。文章構造の基本とも思える。上下・前後は、ある文章がある文章の土台あるいは背景になっていたり、話の前段階、次の話、といった位置関係を認識していく感じかな。決め台詞は、なんというか、輝いて見える特徴的なことばがたいていは混ざってくるため、それを特別視する挙動を指している。きらきらしているかっこつけた言い回しがあるし、そういうことばが好きだ。お題目は、ほんとうに、「このあたりではこういったはなしをしてますよー」と通奏低音的に流れている空気(を示すことば)があるので、それのことである。こんな整理法でよいのかまだ発展途上ではあるものの、とりあえず、目についたので、残しておく。

2024年03月10日(日)みかん風くだものをまとめたくないらしい日曜日

みかん風のくだものはたくさん

たとえば見た目がミカン風のくだものはたくさんある。オレンジもレモンもポンカンもデコポンも似ている。はっさくも甘夏もグレープフルーツも似ている。が、それらを十把一絡げにして「ミカン」と呼んでいたら、たぶん怒られる。怒られるまではいかずとも、眉をひそめるひとはいる。そんな粗野な振る舞いを嫌うひとはいるに違いない。

大雑把にくくるのはよくない。乱暴にまとめるのはよくない。精緻に見つめれば違うものなのに(そしてそのこまやかな差が大切なのに)一緒くたにされたらたまらない。実はそんな繊細な違いを有している物事がいくらでもあるんだろう。にもかかわらず、勝手にひとつにまとめられ、甘く見られグループや嫌われものグループと一緒くたにされている事態だって、じゅうぶんありうる。

ピントを合わせる気もないまま、ぼやけて見えているうちは、同じに見える。詳細を理解しようともせず、遠目で見ているうちは、同じに見える。調査すればすぐに判明するような事実確認もせず、乱雑なことばの定義によって、同じものであるかのように語られているものが、きっとたくさんある。こういうあつかいかたって、つまるところ、"軽んじている"ってことだよなあ、とは考えていた。むろん、好きなものがそんなふうに"軽んじ"られていたら嫌だ。

大切なもの大事なものが、曖昧・乱暴・大雑把なことばで、滅多斬りにされていたら、当然、不快だ。丁寧にあつかってほしい。汚れた手で乱暴に振り回すようなあつかいはやめてほしい。しっかり敬意をもって語ってほしい。自分が好きなものに対するこういう思いと、こういう思いをそれぞれが抱えているであろうことは、意識しておきたいな、とあらためて思った。この観点は忘れないようにしたい。知らないものや興味の薄いものが相手だとたしかに難しいが、しかし注意はしたい。

軽薄な本

書店で棚に並んだ本のタイトルを眺めながら、「軽薄な本っぽいな~」「志の低いコンセプトだな~」とか思う瞬間があって、そういうときの判断の内実・基準って、つまるところ、そこで語られるべき根幹(本質や核心)が、「曖昧・乱暴・大雑把に」語られてしまっているであろう状況に対する警戒心にありそうだな~、と気づいた。あつかいやすくするために変なふうに削られていそうというか。その削減する過程で本質や核心と言えそうなところまで失わされていそうだなというか。浅く緩く温く甘く、軽々しく、物事を「型」に押しこめようとする怠け心や不敬に対する警戒心が、「軽薄」「志が低い」ということばに繋がっている。

逆を言えば、"志の高い"振る舞いというものを、「変に一緒くたにはしない」「細やかな差異を軽んじない」「乱暴に削らない」「精緻に見つめる」「違いを尊重する」ということの向こう側に見ていることがわかって、なるほど、と思わされたところもあった。書いていて思ったが、「尊重する」という挙動に重きが置かれていそうな気もした。

2024年03月09日(土)興味深かったらしい土曜日

日本語の秘密

日本語の秘密 (講談社現代新書)

『日本語の秘密』(川原繁人/講談社現代新書)を少し読んだ。俵万智さん、Mummy-Dさん、山寺宏一さん、川添愛さん、という「ことば」を使うひとたち、四名にいろいろな話を聴いて取りまとめた新書だ。

山寺宏一さんの話の中に興味深いところがあったので書き留めておきたい。忘れないようにしたい。「声優はたしかに声のバリエーションが求められる。しかし、それは結果であって目的ではない。目的はあくまで、演じるキャラクターの魅力を、視聴者のもとまで、しっかり届けることにある」といった言い回しに、納得させられるところがあった。話の内容ではなくて、「結果」と「目的」の対比のさせかたが、新鮮だった。わかりやすい事例を提示していただけて見通しがよくなった。

あるシチュエーションにおいて、そのうちの要素のひとつが、「結果」ではなく「目的」であるということ。また、そういったときの「結果」と「目的」の"誤認されがち"な状態について、認識をあらためることができた。

主目的にいたるまでの主通路が「目的」であるかのように見えてしまっている事態って、きっと多い。そのせいで誤認させられていることも多いんだと思う。いっつも(通りやすいために)主通路を選ぶことになっているが(慣れているし通過しやすいし無邪気に選んでしまう)、しかしそれは、通りやすいから、「結果」としてそうなっているだけ、であって、そもそもの「目的」はそこではない、ってことが、まあある。

みかんを食べるためにいっつもみかんの皮を剥いていたら、「みかんの皮を剥く」のが「目的」に見えるかもしれない。いや、この例はちょっと違う気もするな……。みかんを食べるのに、いっつもみかんを口の中に入れていたら、「みかんを口に入れる」のが「目的」に見えるかもしれない。というのはどうだろう。多少は妥当な気はする。「みかんを口に入れる」のって、過程であるかのようには見えにくい(目的っぽく見える)し。

プロセスが「目的」に見えると、ゴールも見誤って、いろいろズレる

みかんの皮を剥くのも、みかんを口の中に入れるのも、あくまで、「みかんを食べる」ための、効率的・効果的なプロセスであって――あくまで、たいへん選ばれやすい通路(主通路)であって、「結果」だ。でも、あまりに選ばれやすいため――みんながそこに向かって動くため、「目的」かのように見える。こんなふうに、「結果」的に選ばれまくるプロセスが「目的」であるかのように誤認される、という構造が、まあ、あるんだと理解した。

そして、こういった「結果」と「目的」の見間違えが、いずれ、改善や訂正を試みようとしたときに、さらなるズレに繋がっていくんだろう、と思った。判断ミスに呼び起こす。目的・目標・ゴールにかかわる認識がズレている状態って、その後のルート選びを、あっさりミスらせる印象もたしかにあるし。

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