世界は称賛に値する

日記を書きます

記憶と決意

▼▼思い出せている情景と情報によって気分が変わり納得が変わり決意や決断が変わることは多々あって、思い出せるかどうかで、つまり、決意や決断が変わる。思い出せないことでも変わる。可能な限り維持しようとか思っていた決意や決断が「思い出せない」ことにより、変えてもよいと思えてしまったりする、というか、変えてしまっていることにさえ気づけなくなっていたりもする。決意や決断が持つこういった脆弱性は、ぜんぜん認識できていなかったなー、と最近は思ったりする。

制限を知らなかったころの気ままな想像が、核

▼▼物理学的な縛り、生物学的や生理学的な縛り、といったものについては、逃げようのない限界だ、と今では思っているところもあるため、このあたりのことを把握できていなかった「こどもの頃の気ままな想像」が、精神の核になってしまっていること──こどもからおとなになるという順番を崩しようがない以上、無知な頃の想像が精神の核になってしまうことを避けるのは、極めて困難であろうこと、に対し、あーあ、と思ってみたりすることも、あったりはする(でもまあ、とはいえ、このあたりの「核」に潜む、自由さや奔放さが、なんとなく世界を明るいものとして見せてくれているところ、も、ありそうかな……)。

論理の狂いを目くらます修辞

▼▼駄目な議論、狂った論証、正しそうに思えるのだけれど丁寧に見つめてみると実際は正しくない説明、というようなものが、ある。話し合いの中で実行してしまわないようなんとなく気にしていたりもする。気をつけていたりはする。▼▼というような「正しそうに思えるのだけれど丁寧に見つめてみると実際は正しくない」指摘、を、人様から受けた時に、瞬間的には妥当じゃなさや適切じゃなさに気づけないことがあって、むしろこういう「気づけなさ」のほうが怖いのではないか、って思った。思い直した。正しそうだと最初は思えてしまうことの理由、を、まとめて掌握しておけるならしておきたいぞ、なんて思ったのであった。▼▼議論や論証における論理の破綻や矛盾のことだけでなく──言い合いと言い負かしにおける論理面の話だけでなく、話のおかしさを包み隠しうるし誤魔化しうるような効果を見せる修辞の話、が、気になったと言える。
▼▼強引で強烈なツッコミを受けてなんとなく言い負かされた気分になってしまったのだけど──撤回や謝罪すらしてしまったのだけど、改めて考え直してみたら、あの時のツッコミ、若干おかしくない? 破綻してない? 矛盾してない? というか実際のところほぼ関係なくない? なんて思えるような状況が時々はあったりする、ため、このあたりにあるであろう「論理面の違和を認識しづらくしているもの、技術や性質」のことを、まとめてみたくなったのだった。▼▼誤魔化されていたな!とあとで気づけた時に、では何に誤魔化されていたのか、と思い直せないものだろうか、って考えていた。

感で慌てる

▼▼違和感/忌避感/焦燥感/圧迫感/劣等感/徒労感。納得感/達成感/一体感/安心感/清涼感/恍惚感。正義感/使命感。物事に際して覚える「感」に対し、このあたりの気持ちや精神や心理をほんとうにじぶんは区別できているんだろうか?と自問してみるのは、好きである。突き詰めることによって、見分けがつきにくくなってきて、慌て始めるのが、好きだ、って言えると思う。感じることができたものの種類、と、想起できた呼びかたの種類、が、適合しているか、ということがあやしく思えてきたりする。脊髄反射的に想起できた呼びかたに飛びついているだけではないか?っていう疑問が姿を見せ始めたりはする。というような結びつきと結びつけ、見間違いと決めつける権利、を、活用している、とも言えそうかな。

文章同士の中で生まれるおかしさは「ほんとうの考えや気持ち」とのズレによって出来る、ということばかりでもない

▼▼昨日の日記に関する注釈的な思考になってしまうけれど、文章というものをいくつも書き連ねていった時に、違和や矛盾が出てくるのは、まあまあ自然だろう。よくある。脳内で論理的整合性を常時精査しながら言葉選び言葉運びをしてゆくのって、(特にじぶんの処理能力では)不可能じゃないか、って思えるくらいに困難なのだ。▼▼というところに対し、ほんとうにじぶんが思っていること、ほんとうにじぶんが感じていること、とズレているから、おかしな言葉選び言葉運びが起こるんだ、って思うの(おもいすぎるの/決めつけてしまうの)、あやうくない?

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気持ちと言葉のズレは論理的矛盾としては発露しなそう

▼▼乱雑に言語化してしまうことでおのれの精神や認識や気分などの把握にミスることがある。勘違いしてしまうことがある。といった理解はあって、言葉選びや言葉運び、に際し、精緻、厳密、妥当、適切、といったことを気にしていることもある。でもって、論理や論理性というものを学び、うまく適用し活用することで、このあたりの言葉選びや言葉運びがうまくなりそう、と思っているところもあったりする。論理が見通せるようになると、言葉選び言葉運びのミスは減る。いくらかは予防できるだろう、とは思えている。
▼▼とはいえ、精神や認識や気分を言語化しようとした時に起こりうる「ミス」は、論理や論理性の学習や体得によって防げるものばかりでもない、とも思うところはある。精神や認識や気分を選ぶ時の「類語の中で行なわれる選択ミス」は「論理的整合性の破綻」として発露してくれるものばかりでもないよな、って思った。


▼▼と書いてきて思った。ある精神や認識や気分を背景にして、言葉を、文章を、複数個書いていった時に、おのおのの比較の中で立ち顕れてくる矛盾、というものは、ありそうなのでは、って思った。思い直した。
▼▼ある気持ちを言葉にしようとした時に、類義語圏での単語選択に、たとえ、ミスしてしまっていたとしても、単独の文章だけでは、おかしさに気づけないことがあるかもしれない。素直に通る文章として観測できてしまうことがあるかもしれない。勘違いや見当違いや筋違いに気づくことができず、じぶんの胸や頭の裡での検査すら、通してしまうことがあるかもしれない。けれど、二つ三つと文章が積み重なってゆくうちに、やはり、違和が出てくる──矛盾が出てくる──整合しなくなってくる、ということは、あるんじゃないかなー、って思ったのだった。なのでここで「論理」を活かせる気がする、とは思ったのだった。


→翌日の注釈的な思考
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