世界は称賛に値する

日記を書きます

ごくごく自然な顔して近づいてきた自己認識(勘違い)を、はねのける

▼▼じぶんは、今、こう思っているなー、こう感じているなー、と「判断」してしまいそうになった瞬間に、いや! いやいや! 実はそれぜんぜん思ってないわ! 実はぜんぜんそう感じてないだろ! うわ、あぶな……、今、自己認識になんとなく検閲を入れてなかったら――脊髄反射的にツッコミを入れることではね除けられていなかったら、ほんとうにじぶんがそう思っていることを「確定」させちゃってたわ……、そう思っていることに「しちゃって」たなあ……、なんてふうに思える瞬間がたまにあって――勘違い的な自己認識を、すんでのところで、食い止めた、なんて思える感覚がたまにあって、自己認識の当てにならなさ、とか、急に来る見当外れの自己認識、とかについては、普段から気をつけておかないとほんと危ないな、と、改めて思うことがあったりはする、のだった。
▼▼じぶんがじぶんの精神の状況を判定してみせる時の、脳内の判定者を、あんまり信用しすぎないほうがよい、というか、あんまり、素直に、唯々諾々としたがってると、たまに痛い目見そう、というか、しれっとした顔で突然おおきな嘘をかましてことがある印象なので、気をつけねば、と、最近ちょくちょく思ったりするのであった。

三つ生んで、一つ生き残らせて、生存競争を生き抜いた文だけで、文章を構成する

▼▼完璧なアイデアが神懸かり的に降りてくるのを待ってるよりは、とにかく頭と手を動かして百個アイデアを出して、ブラッシュアップなりなんなりしていったほうがよい、という行動指針がある。絶対的なよさを待ってるよりは相対的なよさを積み上げていったほうがよい、というような情景と言えるだろう。
▼▼っていう思想からの連想で、よい文章/うまい文章/理想的な文章、が、運よく降臨してくれるのを、静かに待っているよりは、下手でも駄目でもよいから、とにかく書きまくって、削っていったほうがよい、というやりかたについて考え始めて、そこから、うーん、とりあえず、今から書こうと思ってる一文について、三つほど、書いてみて、書いた三つの中から、一つ、最もよいと思えるものを、選ぶ、というやりかたで文章を築いていく、っていうのはどうだろう、なんてことを思ったりした。
▼▼三つ選択肢の中から常に最もよいものが選ばれている。といった「相対的なよさ」の積み重ねによって、けっこうなところにある「素晴らしさ」に近づけたりするんじゃないか、という閃きであった。▼▼物差しも素材も漠然とした状態のまま、短絡的に、「よいもの」が出来上がってくれるのをただ待っているよりは、余程、建設的で、余程、可能性があるんではないかなー、と思ったのであった。▼▼少なくとも訓練としてはよさそうに思えた。

最後のジャパンゲームコンベンション、JGC2016に行ってきた

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▼▼アナログゲーム、っていう言葉のもとで行なわれる区分にもいろいろあって、比較的おおきな区分では、ボードゲーム(カードゲーム含む)、テーブルトーク・ロールプレイングゲーム(TRPG)、人狼、という雰囲気で分けられるのかな、と最近は思っている。ボードゲーム・カードゲームをひとまとまりにしてしまうのは――ひとまとまりにして、ボードゲーム、という言葉だけでまとめてしまうのは、言語表現的にどうなのだろう、という気もするのだけど、ボードを使うゲームとカードを使うゲームを線引きしようとするのは非常に難しいところがあって、別物として捉えるのはキビシイし、だからってその二つの形状を一言でまとめるのもキビシイな、なんて思ってしまうところはある。
▼▼と同時に、「人狼」っていうものを単独の枠組みとして捉えてしまうのも違うような気はするのだけど、とはいえ、人狼で遊ぼう、ということに特化した趣味嗜好ないし認識が存在している印象はだいぶ強くて、とりあえず、別枠として考えておきたくなるところはある、のだよなー。▼▼そして、「人狼」というものを独立させるなら、「囲碁」「将棋」「チェス」「オセロ」「バックギャモン」「しりとり」「ウノ」「ポーカー」「トランプ」あたりも、独立した枠組みとして挙げておかないと駄目なんじゃ、駄目になっちゃうのでは、という気も、するはするのだけれど……。


▼▼ともあれ、アナログゲームないし無電源ゲームや非電源ゲームなんてふうに呼ばれる遊びの中の一つとして、テーブルトーク・ロールプレイングゲーム(TRPG)があって、そのTRPGを主体にしたイベントに、今日は、参加してきたのだった。
▼▼ジャパンゲームコンベンション――通称「JGC」、と呼ばれる、これまで21年ほど、毎年、夏に行なわれてきた、宿泊型の巨大TRPGイベントである。当日参加も可能で、一回は顔を出してみたいと思っていた。運よくこの日に休みが取れていて、アナログゲーム的に遊ぶ約束も立っていて、当日参加ならできそうだったので、行ってみましょうか、って流れになった。
▼▼JGCという名前でのイベントは今年で最後になるらしい、という話も、偶然聞くことができて(来年からは、名称や場所、スポンサーなどが変わって、いちおう継続はしてゆく模様)、このまま一回も行かないままになりそうだったところ、うまく行く機会が訪れてくれた感じはあるし、せっかくだから行こうか、っていう気分にもなった。


▼▼物販ブースにおける新作ボードゲームの先行販売が主目的ではあった。大変わくわくしながら、販売員の方から、沢山、説明を受けて、どれもこれも欲しいぜ、という気持ちの奔流を楽しんでいた。▼▼結果的に『スカイアイランド』『パカルのロケット』『ハコオンナ』『盗賊市場』『新・成敗』を購入。▼▼まごまごしているうちに『ドラキュラの逆襲』『ふたつの街の物語』が売り切れてしまったのは、残念だった。販売員の方が非常に丁寧に説明してくれた作品だったため、申し訳なかったな、という気持ちも強くて、後日ちゃんと買いますー、と心に決めた。
▼▼ゲームについては、体験ブースでの『クトゥルフ神話TRPG』(10分の1クトゥルフ)と、フリー卓での『ブラックストーリーズ 50の黒い物語』(ボードゲーム)に参戦した。
▼▼体験ブースでは「60分」という縛りがあったため、この縛りのもとでの、進行、シナリオメイク、が為されていて、かなり参考になった。あと、TRPGってほんとに時間があっという間に過ぎるな……、と、改めて驚いた。60分がほんとうにすぐだった。あっさりと夢中になっていて、あっさりと時間を忘れていた。シナリオは「灰色の侵略」と呼ばれるものだったようだ。
▼▼『ブラックストーリーズ 50の黒い物語』は、ひどく端的な「結局、何事が起きたのか」というコメントだけを手がかりにして、進行役にイエス・ノーで答えられる質問を続けていって、実際に何が起きていたか、を当ててみせるゲームである。「早朝だったため、彼の犯行は失敗に終わった」というような一言だけがカード表面に書かれていて、その裏面に、実際に何が起こったかの詳細が書かれている。どれもこれもなかなかブラックな話で、しかも、どれも、実話である(シリーズ化していて、実話じゃないものも出てきている)。


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▼▼指導が受けられるブースで『桜降る代に決闘を』というゲームも遊んだ。いちおうすでに持ってるんだけど、一回も遊んでいなかったので、ちょうどよいので講習を受けていこうか、という気分になったのだった。でもって、これが滅茶苦茶面白くて、驚いた。二人用ゲームでは今までで一番好きかもしれない。格闘ゲームがモチーフになっている。十六枚のカードから十枚のカードを選んでデッキを組み、相手と戦うゲームだ。ライフ、間合い、ガードゲージ、超必殺技ゲージ、といったものたちが、行き来できるポイントで管理されていて、ゲージごとの数値バランス調整と、キャラクターごとの必殺技の特性によって、戦っていく。間合い、というものが、ライフやガードのゲージと「同じ枠内」で管理されているのが、非常に斬新だった。新しい面白さとバランスに繋がっていて、ちょっとこれはスゴイんでないか、と思った。今後がっつり遊ぼう。

フレーバーが思考のタイプを変えるか

▼▼戦士になってドラゴンを倒す。駅と駅に鉄道を繋げる。じぶんの島を作る。ヴァンパイアハンターになってヴァンパイアを見つけ出す。刑事になって犯人を捕まえる。語り部になって言葉を語る。ピザを作る。金塊を探す。夏の思い出を集める。動物園を作る。牧場を経営する。じぶんの星系を作る。幽霊から逃げる。フェンシングで戦う。ごきぶりを押しつける。
▼▼ボードゲームのフレーバーは様々である。ボードゲームを構成する三要素として、メカニクス、アート、テーマ、という「挙げかた」の話を見かけたのだけれど、テーマ、そして、フレーバー、という言葉の区分が不明瞭ではある。モチーフ、っていう言いかたもあるのだよなー。ストーリー、っていうのも似たところを示す気がする。▼▼メカニクスの近似品として、ルール、ギミック、という言葉もあって、アート、の近似だとコンポーネントという言葉がある、かな。デザイン、という言葉の位置づけも難しいところだ。


▼▼フレーバーやテーマというのはあくまで楽しさを増幅する要素であって、別のものにしたとしてもあんまり変わらない? のではないか? っていう問いがあるのだけど、この問いに関して、例えば、映画監督になって映画を撮るよ(というイメージのもとで進行してゆくゲームだよー)、という説明を聞いたら、まるでじぶんが映画監督であるかのように、もしもじぶんが映画監督であったなら、という「頭の使いかた」のするんじゃないか? ここで「思考モード」「思考タイプ」みたいなものが切り替わるケースがありうるんじゃないか? っていうことを思ったのだった。
▼▼まったく同じメカニクスに接しているのだとしても、映画監督モードと牧場経営モードと魔王討伐モードで接するのでは、判断が――判断プロセスおよび判断結果が、変わるんじゃないかな、って思ったのである。


▼▼「カンガルー」→「冷たい料理の熱い戦い」→「ウミガメの島」(途中で「モスクワでの権力争い」という、わずかなルール違い作品も混じったようだけど)、と、メカニクスおよびルール、はまったく同じでありながら、見た目だけ――フレーバーやテーマだけが、ちょこちょこ変わってきた、という、適切であろう具体例があって、このゲームのことはまあまあ念頭に置いている。

ウミガメの島(Mahe)/メビウスゲームズ・franjos/Alex Randolph

ウミガメの島(Mahe)/メビウスゲームズ・franjos/Alex Randolph

▼▼カンガルーとウミガメで頭の使いかたが変わるかわからん……、という気はしてる。
▼▼「××になって○○をする」の「××になって」というところ(ロールプレイ的なものを誘発しうるような誘い文句)が、思考プロセスに影響を与えやすいんじゃない? ということも思った。ロールプレイ的フレーバーと、ゲーム全体が模しているフレーバーは別、というような。
▼▼判断プロセスの変化じゃなくて、単純に「面白いと感じるかどうか」が変わる、という切り口もあって、ここは、別の話、として認識しておいたほうがよさそうだ、という気が今のところしている。融合させて話せるほど整理できていないだけだけど。

ゆっくり考えない時の言葉

▼▼眼前の人物と実際に話しているような状況だと、あまり悠長に考え続けているわけにはいかないし、静かに黙りこくっているわけにもいかないし、というようなところが多少はあって、結果として、瑕疵のない文章を追求すべく、理想の答えを待ち、推敲や校正に時間をかけて書き直しを繰り返していく、というようなやりかたとは、言葉の出てきかたや出てくる言葉、が、いくらか変わる。言葉使いが変わる。▼▼といった言葉もうまく活かしていかないと人生は成り行かないんだろうな、ということを、最近は改めて思ったりした。時間をかけて選んだ言葉ばかりで生きていくのは難しそう、というか。


▼▼前述のような、実践的、生活的、ライブ的、な、言葉、というものを改めて大切に見つめてみる習慣ができて、日記を書く時間も少し減った気がしている。偶然掴んだ言葉や偶然捕まれてしまった言葉を大切にしていて、まあつまり、あんまり書き直さないようにし始めたからだ。すぐ捨てないで使えないか考えるようになった。別にどちらがよいとか正しいとか、ないとは思う。好き嫌いも向き不向きもあるだろう。おのおの試してみてじぶんに向いているのを探してみるのがよいのかな、という雰囲気で、今は動いている。

文章の種類(の量)での楽しみ

▼▼風景描写、状況描写、心理描写、行動描写、世界や社会や文化などの説明、ルールの説明、気持ちの説明、知覚の説明、思いの説明、前提となる価値観、比喩、なんていうふうに、小説の文章を腑分けしていくことは、いちおう、できる(まあ、腑分けしてしまうことで、結合が崩れて、総体が醸し出してくれていたもの、は、見極められず――見定められることなく、死ぬかもしれないけれど)。
▼▼文章一つ一つの、分類、種類。
▼▼ここの比率で好き嫌いがけっこう動いていそうだなー、と、少し思った。芝村裕史さんの小説を読んでいて、心理描写の書きかたがどう、とか、登場人物の心理がどう、とかじゃなくて、状況描写、判断の前提、推測、判断内容、あたりに分類される文の「量」が単純に多くないか? 多くて喜んでいるところがあるんじゃない? なんてふうに思ったのだった。すごく面白がっているけど、「ほかと違ってこういう種類の文章が多いところが、すごく好きだ!」って感覚で面白がっているなー、と思えるところがあった。

富士学校まめたん研究分室

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