世界は称賛に値する

日記を書きます

『タイムボム』『ディクシット』『スコットランドヤード東京』『ザ・ゲーム』『ハイパーロボット』『ラブレター』『禁断の砂漠』『宝石の煌めき』で遊んだ

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▼▼『タイムボム』というボードゲーム(カードゲーム)がほんとうに好きである。正体隠匿ゲームで遊びたい、という欲求を、かなり適切に満たしてくれる。隠匿はしつつ、ブラフやハッタリの技術があまり問われない空気が、うまく出てくれる。というところがほんとうに素晴らしくて、遊ぶたびに感激しているのだった。正体隠匿って苦手、というのが、システム的に出にくくなっていて、素敵なのである。
▼▼このゲームが出してくれる独特の雰囲気の説明として、ばば抜きで、ばばを見つけ出したら勝ちチームと、ばばを隠し切れたら勝ちチーム、に分かれたら、同じノリになるんじゃないかなー、というのを思いついた。▼▼ばばを持っているか、というのを、手札確認後、無言で挙手する、というフェイズを加えてみたら、よりそれらしくなるんじゃないか、とも思った。おのおのが、隣の人から、札を、一回か二回引いたら、カードを配り直し、というルールが加えれば、もうだいぶ似たものになりそう(これもうほとんど同じゲームなのでは)。
▼▼人狼なんかで遊べればー、って思うのだけど、人狼ほど「嘘をつき続ける」空間は流石にツライぞ、っていう状況が(時間的にも、参加者の嗜好的にも)多々あって、とはいえ、あんまり些細な正体隠匿じゃ我慢できないぞー、というような気持ちもある時に、程よく、欲を満たしてくれるのだ。ものすごくちょうどよいのであった。



▼▼って雰囲気で『タイムボム』から遊び始めて、『ディクシット(拡張のオデッセイとクエストを混合)』『スコットランドヤードトーキョー』『ザ・ゲーム』を五人プレイ。のちに『ハイパーロボット』『ラブレター』『禁断の砂漠』『宝石の煌めき』を三人プレイ。で遊んだ。『禁断の砂漠』だけが初プレイ。かなり好きな雰囲気がある。『パンデミック』に似ているけれど(同じデザイナーだし)、難度がほんの少しだけ下、という雰囲気も含めて、遊びやすさが全体的に少しだけよい、気がする。『宝石の煌めき』も前回はよく判らないままだったので、初めてきっちり楽しさを掴めた、と言えそう。『宝石の煌めき』は、いやちょっともう一回少しやんない? って感覚が出るな……。
▼▼勝ち負けで言えばぜんぜん勝ててはいない。『ハイパーロボット』という、詰め将棋的な盤上を、全員で同時に見つめ始めて、誰が最短の手を思いつくか、というゲームがあるのだけど、こういう場でぜんぜん歯が立たない、という感じ、すごく面白かった。不得意ではないのだけどボロ負けが気持ちよかった。

何が起き、知覚され、推論され、判断され、実行されたか

▼▼状況判断、前提および指針、推論、決意、実行。
▼▼軍事関連の文章では「かなり厳格で淡々とした記述」が為されている、といった話を読みながら(芝村裕吏『富士学校まめたん研究分室』のあとがき、を読んでいた)、ボードゲームの話を書く時に同じノリで書いたら楽しそうだなあ、って思った。最近書くことが多いからだろう。この手の言葉をあまり残していないからというのもあるだろう。
▼▼当該事例において、何が起き、何が知覚され、何が推論され、何が判断され、何が実行されたか、という記録。▼▼次に活かせるものを、というような目的のもとで――次に行なわれる判断と行動が「もっとよい」ものになるように、といった目的のもとで、事態のレポートが、書かれる。記述が、なされる。▼▼というような、厳密性、再現性、戦略性、を軸にしたレポートが書かれてもよいなあ、って思った。

『ごきぶりポーカー』『コヨーテ』『ディクシット』で遊んだ

▼▼お邪魔してボードゲームで遊んできた。五人プレイ。

Drei Magier ごきぶりポーカー

Drei Magier ごきぶりポーカー

▼▼最初は『ごきぶりポーカー』から始めた。人様に裏向きのカードを突きつけて「これはコウモリのカードですよー」と言ってみせるゲームだ。言われたほうは、判定する。判定するのが怖ければ、カード内容を見て、ほかのひとに判定を回すこともできる。回すと真実を見抜かれた時のダメージをじぶんが負うことになるけれど……。場の状況、人の表情、カードが回ってくるまでのコメント、を情報にして、真実を推理する。



コヨーテ 日本語版

コヨーテ 日本語版

▼▼次は『コヨーテ』に決めた。インディアンポーカーのように、頭の前に、カードを配置する。つまり、ほかのプレイヤーからはカードが見えている状態にする。カードには数字が書かれている。見えているじぶん以外のプレイヤーの数字を手がかりに、前の人よりおおきな数字を言っていくゲームだ。チキンレース気味。数字が×2されたり、最大の数字だけが無効化させられたりするカードがあったりして、読み合いが、ばらつく。というあたりの中で出てくる各自の笑い声が非常に楽しい。



ディクシット:クエスト 多言語版

ディクシット:クエスト 多言語版

▼▼最後に定番『ディクシット』で締めた。最近買った拡張『クエスト』を開封してカードを混ぜた。持ち回りで回ってくる語り部役の人が、手札を一枚選び、題名をつけて、皆がそれに追従するように(そして騙してみせる形で)カードを出して、投票し合うゲームである。相変わらずの面白さであった。大変笑った。ディクシットは、基本セットのカードが一番シンプルで使いやすいぞ、面白いぞ、という話を複数回、聞いた記憶があるのだけど、最近になって、少しその感じが判ってきた気がする。ニクイ絵柄が多い。

二つの意味が重なっている

▼▼ツンデレ、中二病、壁ドン、というような「出自となる文化圏の違い/広義や狭義の範囲の変化/見た目上などから来る誤解、などなどによって、異なる二つの意味が、同じ言葉の上に、重なっている――重なっていしまう羽目になった」言葉、というのが、比較的好きだ、と、改めて気づいた。気づいたのだけど、これって、言葉の誤用も好き、ってことになるのかなー、ということも同時に考えていた。同じ状況じゃない?と思えた。
▼▼ツンデレや中二病や壁ドンという言葉群は、誤用だろ、と言えてしまうような「正当性のある意味」を持たないように思える(言ってもツッコまれる様子が想像できる)のだけど、きちんとした歴史的経緯や国家的統計などがあれば、「こちらが正しい用法だ」と言えるものは、出てきたりするだろう。出してこれるだろう。昔から使われてきて、皆様が今も使っている、といった背景の中に対して「正しさ」を「見て取る」ことにより、使いかたの正しさ、まで謳うことができる。


▼▼といった「違い」を見つめることで、昔からあった言葉の上に二つの意味が重なってしまった、というのと、最近出てきた言葉の上に二つの意味が重なってしまってる、というのを、異なった目で見ることは、可能じゃない? 可能だろう、と思った。
▼▼うーん、でも、絶対か? 絶対「異なった目」で見ないと駄目か? とも思った。
▼▼歴史を背負っていて、大衆を背負っていて、社会性や統計による強靱さを持つ、からと言って、当然のように、それに阿らないと駄目なのか? 阿ることが――頭を垂れることが、妥当なのかな? って思った。


▼▼社会性に頭を垂れるのって、別にぜんぜんしてもよいのだけど、絶対だ、当然だ、という水を向けられると、やっぱり、ちょっと、抵抗が出る。不満が出る。いやそこ盲目や盲従は駄目でしょ、っていう意識が出てくるところがある。
▼▼このあたりに関する意識をないがしろにしてると――このあたりのことをあまり深く考えないでなあなあにしてると、緊急時に、ヤバイ、ダメージがヤバイぜ、というような印象が強いのだよなー。▼▼油断や隙を見せていた時に喰らってしまうものがヤバすぎる脆弱部位、といった印象がある、のだ。普段から、何かあれば防御できるよう、備え、訓練しておくべき、と思う癖はついているのだった。

理解ってぜんぶ比喩的? 近すぎると比喩ではなさそう

▼▼比喩で理解する、っていうのって――似ている、という手触り(閃き)を手がかりにして、把握しようとする、っていうのって、理解という行為ぜんぶそれじゃないの? という気も少しして、考えていた。▼▼眼前のものについて今まさに「理解しよう」と志向していることにおいて、過去の記憶、過去の経験、が、関わってこないわけがないのだから、つまり、ぜんぶ「比喩」と言いうるのでは?――ぜんぶの理解について過去の体験が比喩的に関わってきていると言いうるのでは? という思いつきであった。


▼▼昨日解いた数学の問題を物差しにして、今日の数学の問題を、理解する。昨日の合コンでの会話を反省材料にして――昨日の合コンと似たものとして、今日の合コンのことを考える。昨日食べた蜜柑を今日の林檎を理解する。前に触れたパソコンを使って今日のゲーム機のことを考える。
▼▼似た物体、似た行動、が二回あって、二回目を、一回目の比喩、として、考える、ということにおいて、同じ、と言えるような形状を使って「比喩だ」と解するのは、いちおう妥当、なのかなー。▼▼「同じ(同じではない/似てる)とは何か」――「同一、というものを定義してから、類似や喩えを判定せよ」って話になっちゃうのかな……。


▼▼近すぎるものや似すぎているものは比喩とは言えないだろ、っていうような指摘で終わってしまう話、な気もしてきた……。
▼▼喩え、というのは「ほかのもので喩える」と辞典的には説明されている。「ほかのもの」――「ほか」という言葉が使われている以上、近すぎるものや似すぎているものでは駄目である、「ほか」とは言えない、という形状で理解しちゃってよいのでは?


▼▼同じであるとも、まったく違うとも、言いがたいような、「程よい距離感」で、類似してる近似してる、同じようなところがある、と言える時に「こそ」、「比喩」という言葉が使えるのではないか。ほどほどの距離感がある時にこそ「比喩」だと人に打ち出せるのではないか。距離感が比喩のキモであり、距離感を踏まえない「似てる」は「比喩」とは異なるのではないか。
▼▼っていうふうに「比喩」というものを考えてみるなら、物事を理解する、という行動の中に「似たもの/似た記憶/近い記憶、を手がかりに、掌握しようとする」という要素が常に含まれているのだとしても、だからってそれをぜんぶ「比喩」と称するのは妥当ではない、ってことが、言えたりするんだろう。▼▼似た事物を比較に使うだけでは――単なる「似ている」だけでは、不適切で、似たものが程よい距離にある必要があるのだ。そこまで考えられていないと使えない。


▼▼以上、「理解はぜんぶ比喩である」の否定的証明、終わり。▼▼なんて言いたくなる気分にはなった。

川崎市市民ミュージアム『「描く!」マンガ展』に行ってきた

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▼▼川崎市市民ミュージアムで「「描く!」マンガ展――名作を生む画技に迫る」の展示が行なわれている。創作意欲や創作技術に触れるのは好きだ。行ってきた。武蔵小杉駅からバスで10分ほどだった。武蔵小杉での下車は初めて。
▼▼前期と後期で展示内容が変化していることのことだった。行ったのは後期である。
▼▼赤塚不二夫、石ノ森章太郎、手塚治虫、藤子不二雄A、水野英子、あずまきよひこ、さいとう・たかを、島本和彦、竹宮恵子、平野耕太、PEACH-PIT、陸奥A子、諸星大二郎、の漫画が展示されていた。
▼▼漫画創生期からの技術の歴史的経緯は非常に面白かった。
▼▼歴史的経緯における「登場してきた瞬間の驚き」が理解できた(ような気がした)時の雰囲気が、とても好きだ。美術館や博物館に求めているものの一つだろう。今回の展示では、『ゴルゴ13』を初めとした「劇画」が出てきた時の技術の変化の説明に、おお、素敵だなあ、って思った。▼▼島本和彦の漫画がものすごく読みやすい、陸奥A子の絵柄が妙に好きだ、諸星大二郎の作品って面白そうだ、あずまきよひこの『よつばと』やっぱりすごい、というようなことも思った。
▼▼漫画家各位の展示の中に、田中圭一さんの解説が付いているのだけど、これも、大変面白く読んだ。絵柄を実際に模写している人の見地、語り口の妥当性を検証するところまで含めて、面白いものだなあ、と思ったし、やっぱり、こういう場でこういった「物事の見かた」を教示してもらう楽しみってある、とも思った。
www.kawasaki-museum.jp




▼▼時間が足りなくて、もう一つやっていた「&(アンパサンド)がカタチをひらくとき」が見られなくて、残念だった。楽しそうだった。
www.kawasaki-museum.jp