それは主観の違いによって(混乱中)

▼▼同じような出来事でも幸せに思えたり不満を覚えたりすることがある。気分や文脈で解釈が変質し、受け取る世界の色合いまで変わる。変わることがあるとは思う。▼▼というような複数の経験から帰納して「主観」という概念、あるいは、厳密に言うなら「主観的なもの」や「主観によって異なる」という理解の切り口、を認知しちゃうことが多い気がしているのだけど、こういう概念や型、活用に値するかなあ? ほんとうに信頼できるの? 実際のところ必要? なんて思ったりした。▼▼まったく同じ出来事などこの世にはなく──まったく同一の状況などありえない、のだから、主観によって異なる、なんて見かたを持たない処世術でだって戦いうるのでは? と思ったのだった。
▼▼整理が難しいな……、と、このあたりで十数分は呻いてた。
▼▼強気で言葉にしてみるなら、世界がじぶんの主観によって変わって見えるなんてことはない! 単に世界が毎回違うだけじゃん! になるかなあと思った。
▼▼多少はじぶんで影響を与えられる範囲、としての「主観」を認めることで、世界に対して、主観変質的なアプローチができるようになる、という構造は好きなので、主観、というものを強く貶めたいわけではないのだけど、幸せ不幸の話、を見かけるたびに「主観的な問題だからね」的な話を即座に思いついてしまうところがあるせいで、というか、じぶんの思考の背後に「主観というものが存在する」という見かたが当然のように潜んでること、および、数々の経験から「主観が存在する」ってふうに帰納をしてしまってきてるけどこの帰納って微妙に雑なのでは?と思えたこと、により、頭使わずに「主観主観」とか言ってんじゃねー!とは思えたりしたのだった。

(間)

▼▼うーん、これ「主観」の話じゃないかも。軽く見当違い感あるなー。冤罪風味だ。
▼▼同じような出来事が解釈の違いによって違う手触りに感じられる──気分や文脈で解釈に違いが出る。という複数の経験から帰納してこれるものって、主観的なんだねえ、だけじゃなくて、ほかにもない? というようなことを思っているような気がする。主観ばかりが槍玉に挙げられすぎじゃない?というか。ここにある隙間に「主観」を当てはめるばっかりで飽きてきたというか。
▼▼この文章じぶんでも意味の掴みにくいところがあるけど書き直さないようにもしよう。