事物と心の説明時の言葉選びをミスらないように信心

▼▼思っていること、起きていること、を、言葉にする時に、言葉選びにミスると──目の粗い判断で言葉選びを行ない変なものを持ち出してきてしまうと、関係のない文脈を繋げてしまうことになって、結果、混線し、見通しが悪くなって、解決しづらくなる、のではないかなー、なんてふうに思っていることがある。脱しづらくなっている苦しみや悩みの数割が、こういう形状や形式で起きているんじゃないか、と想像してみたりすることもある。▼▼媚びるとか卑怯とか醜いとか阿呆とかの「マイナス寄りの説明」の時は、特に取り扱い注意だ、なんて思うこともある。


▼▼言葉をなるたけ適切かつ正確に使いたいぞ!みたいな欲はなんとなくあって、ここの欲や衝動により、現状感じていることについて、この言葉でほんとうに当てはまってる?なんかズレてない?適切な言葉は何処だろう? と検討してみる癖なんかも、多少は、出来ているんじゃないかと思う。
▼▼でもって、前述したような行動習慣や行動指針によって、苦悩に対する見間違い、というものを、あんまりせずに済んでいるような気も、いくらかはしているのだった。
▼▼ぼくが何を感じているか、っていうことと、ぼくが何を感じているかについてどう捉えているか、どう言葉にしているか、っていうことのあいだに出来うる「ズレ」を、いくらかは、減らせている気がしている。


▼▼じぶんの中にある謎で妙な楽観を眺めてみた時に、このあたりに特長があるかも、とは思ったりするのだった。▼▼人様の悩みの話を聞いている時に「言葉の選びかたにミスがあるせいで混乱が深まっているのでは?」と思ってしまうこともあるのだった。▼▼というあたりを組み合わせた整理してみた結果、思った次第、なのだけれど、いくらかあやしいところもあるかな、とも思った。ほかの要素や要因も絡んでいそうではある。
▼▼言葉選びが丁寧だと、苦悩がいくらか薄まる、というか、誤解で水増ししてしまう可能性が低くなる、という状況自体は、あるだろう、って信じているところは、まあでも少なくとも、あるか……。信仰と言えそうな匂いもある。