ようやく辿り着けた境地を惜しげもなく無造作に扱ってる人に対する盲信気味

▼▼じぶんが「お!気づけたぜ!」って感激している「世界に対する気づき」を──解体して整理できて分析してみて「突き止めた……!」なんて喜んじゃってて喜びに酔ってるせいで「これなら単独で素敵コンテンツになるだろ」とか思っちゃってる「新しく珍しい理解」を、随想文や説明文や感想文の中に、ぽん、と、無造作に放り込んでいる書き手が時々いて、おお、と異様に尊敬しちゃう癖がある。あるなーって思った。
▼▼ぼくがあんなに頑張って見つけたものを、こんなに惜しげもなく、贅沢に、しかも無造作に幾つも、巧みに活用できちゃってるってことは、もっと図抜けて素晴らしい認識や理解を沢山持ってて、だからこのあたりのものなんて別に珍しくもありがたくもないものなんだろうな、っていうような判断を下してしまうのだった。
▼▼無論、単純に、出し惜しみをよしとしない型の人、なのかもだし、出会った気づきの扱いが気軽で巧みなだけの人、なのかもだ、とは思う。違う打ち筋の人物像はまあまあ想定できる。▼▼けど、消費を惜しがる精神がじぶんの心にははっきりくっきりあって、理解を熟成させてからーなんて思いながらビビってる心理もじぶんには間違いなくあったりしてるので、脊髄反射的な認識としては、素敵で大切で貴重な気づきを出し惜しみもするし慎重に扱いもする人物像、を思い浮かべてしまうのだった。▼▼浮かべてしまって、出し惜しみせず無造作に扱ってもいるんだから、つまり、もっと素敵で大切で、より貴重な認識があるんだろうな、って考えてしまう。
▼▼尊敬したがり、凄さを見たがり、な嗜好があるので、影響はしてる、とは思った。相手を「凄い人だ」と称えられる解釈に引き寄せられるところがあるのだった。
▼▼けれど、誤解や過剰がこんがらがった称賛は、回避や解消しづらいせいか、迷惑値が妙に高いプレッシャーを誕生させるケースがあって、苦手だ。誰かに向けてしまうのを異様に怖れてるところがある。▼▼こういう人を妙に尊敬しちゃう、って性癖を描いていたら、こういう人だと認識してるあたりに誤解可能性が結構ありそうじゃん?って指摘が浮かんできたので、結果、このあたりを改めて整理して、視線を洗い直して、誰かを称える時の精度を高められないものかな、って考え始めてる。じぶん的にはわりと頻出問題だ。