世界は称賛に値する

日記を書きます

火曜日の始まり

▼▼敬意のない視線で誰かを見ていることがあるなと感じる。諦め混じりの視線については頻繁に考えてしまう。問題点はいろいろだ。いろいろ思う。誰かを評価すること。評価が高いこと。誰かに期待してしまうこと。諦めること。最初から諦めること、と、できるところまで任せること。でもって、理想論と実際論。実際普段どう見ているか。美しい眼差しはどこにあるか。とかかなー。▼▼敬う、が微塵も理解できていないかもだ。

昨日の驚きと感銘の感激ニュースです。過剰かもだけど誇張はないと思います。記録。

→ 「昨日に書いた「外部にある脳」の考え方からいけば、個人の能力は外部からどれだけ「遮断するか」というメカニズムとして解釈することもできることになるのでは。 遮断が全てとはいわないが、個体の外部刺激を感受する能力の中に、何を遮断することで、意識のなににどのような情報を集中させようとするかといった物の見方は、それなりに気にかけておいてもいいかなという気分になりつつある」

→ 「これに続く「アイランド博士の死」と「死の島の博士」はリンクしている。この三作がかたちづくる三角形からポジ・ネガ関係を読み取る作業も楽しい。ウルフは読書の楽しみをよく知っている。ちなみに「アイランド博士の死」は人口惑星を舞台にしたアイデンティティー獲得の物語、「死の島の博士」は不死の問題を主題としている」

→ 「僕も何かを創造したくなったし、誰かの役に立つため、今日よりも明日がいい世界であるために、何かをしたくなった。しかし、いまの僕になにが出来るかというと、一人では特になにも出来ないので、まじめに会社で働くことが一番効率の良い方法であるという結論に達する。ふつうの人は会社で働くことで、世界をちょっと良くしているのだと信じている」

→ 「法の最終的な権力が暴力になるということは、市民社会の合意であり、暴力が無規範にならないように法を合意している。つまり、法は、暴力を無規範な暴力たらしめないという合意。ほいで、それらはまさに合意の問題であって、個人の「内なる」問題ではない(個人が暴力を自覚し自制するという問題ではない)。 それと。 法律の最終的な権力が暴力であるとしても、たいていの事例ではそうならない。そうならないような市民の合意が働くから。というか、暴力を機能させないような迂回の知恵として法の合意が先行している」

→ 「学問ではなく、人間が考える大切なことは生活経験の直感に支えられているのであって、定義はできない。愛を定義してから、愛を議論するというのはただの愚か者だろう」

→ 「SF的な難しさとはまた別の難しさが一緒くたになっている感じがあるね、本書は。哲学してると言ってもいいんだろうけど、そういったものが物語全体に“伏線”として張り巡らされていて、全篇読み終わったところで初めて細々とした部分がおぼろげに理解できたという感覚を味わうことができた」

→ 「タイムリミットを回避しようとする刑事、大人しく待つのみの死刑執行人、そして時迫る刑務所。3者の視点で書かれる事件、館主夫人の様子から、事件の真相までが実にドラマチック。謎も魅力的なのだが、その見せ方、クライマックスにかけての解き方に魅了される」