世界は称賛に値する

日記を書きます

比喩は気持ちよい

▼▼比喩って気持ちよい。物事を真っ直ぐ指ささずに、何かと見比べながら──何かを経由させながら、言語化するのって、なかなかの気持ちよさがあるな、って思う。視野の中に置かれる事象が複数になるため、空間的な拡がりが出来て、気がおおきくなり、気持ちよくなる、というような側面があったりするのかなー、って思った。
▼▼という言い回しにおける「視野」も「空間」も比喩だと思うのだけど、こちらの比喩は「気持ちよさ」によって「出してきたくなった」ものではない雰囲気もあるなあ。なんというか、判りやすさのため、というか、いやそもそも「比喩的な言葉使いをしないと説明できない事象」がある気もする。

物理学を学ぶのが、世界を緻密かつ繊細に「見つめる」のに、最も、と言ってもよいくらい役立つのでは説

▼▼気持ちの動き、思考の動き、物事の印象、意味の関係性、などを、物理的な現象を物差しにして──喩えにして、理解しようと努めていることが多々あるので、ややこしくて馴染みのない物理現象にまで見聞を拡げたほうが──物理学を詳しく学んだほうが、当て嵌められる物理系統の物差し、つまり比喩、も増え、世界に対する解像度まで高くなったりするんじゃないかなあ、なんてふうに思ったりすることもあるのだった。
(いや別に「学問」としては「物理学」に限らなくてもよいのか。「医学」において発生しうる稀有な現象を知って、「数学」の中に存在しうる複雑な事象を知る、ことによっても、可能なのではないか、って思えた)(というような、うーん、まあ、つまるところ、学問によって繊細な眼差しが養えるのでは論、だ)。

早め忘年会(可能であればもう一度やってもよいくらい)

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▼▼インターネット、ホームページ、ブログ、等々が誕生し普及したことにより、市政の人の書く文章を読める機会が増えた。プロとプロじゃない人、玄人と素人、というような区切りの話にしたくなることもあるのだけれど、区切りたいのはそこじゃないことも多くて、なんというか、生活や日常における今日一日があって、その上に「文章を書く」という行為を乗せている人がおり、そういった俎上と手管で書かれたものが、読めるし、読ませてもらえたりする、ということに対して、区切りたいところがあるというか、考えたいところがあるというか、感謝したいところがあったりする。
▼▼というような、枠組み、形状、構造、機構、出自を持つ文章が、出てきた時代に「いられた」ことに、ラッキー!と思ったりしている、のだ。文章としての善し悪しの話はまあ別になるけれど……、と続けたくもなったのだけど、まあ、素敵なものに出会え続けたからこそ、ラッキー!って思えているところはあるはずなので、幸運か偶然によって素敵なものに出会える経験が数多くなってしまったため、良し、善し、と思えてしまっているところはあるんだとは思う。好きだって思えた言葉たちが持っていた表面的な共通要素を褒め称えているだけな気はする。


▼▼というようなことをぼんやり思いながら、ブログ読みたい日記読みたい、というようなことを口にした飲み会が、あったりした。若干早めの忘年会気味の大変素敵な飲み会であった。遅刻にわちゃわちゃしながら向かった。


▼▼というようなことを書いておいてなんだけど、プロじゃない人の文章が読みたい、んではなく、素人の文章が読みたい、んでもなく、日常や生活という空間の中で書かれた文章が読みたい、んでもないかなあ、って思ったりもした。してきた。次段階の言葉が見え隠れしている気はする。日常や生活に重心が置かれている──足を掛けている、ということに基準を置くのであれば、それを満たしてくれている言葉って、ほかにもあるじゃんと思ったのだ。ほかの芸術行為内でも満たしてくれていることがある。となると、インターネットの、ブログの、言葉に、強いフォーカスを当てて褒める、理由、にはならないだろう。インターネット言葉のみが見せる芸術性、的なものを掘り出せないか欲であった。

サンプル不足ならサンプル不足

▼▼サンプルから全体像を想像してみせることに関しての「適切なサンプリング数」の見積もりで、世界観がかなり変貌しそうだな、って思った。▼▼ってのに合わせて、数学的な「最低限必要なサンプリング数」の算出方法があるのに、「最低限必要なサンプリング数」未満の情報しかない状況で、にもかかわらず、安易に想定しようとしてしまっていることが多々あること、および、不足している時に「適量のサンプルを集めねば」と考える意識が出来ていないこと、の、迂闊さも思った。気づいてなかった。

4人の容疑者、テラフォーミングマーズ、楽園の方舟、航海の時代(拡張)、ダイスエイジ、で遊んだ

緑色ボードゲーム会

▼▼軽いゲームと重いゲームという言い回しがあって、判定条件や境界条件が若干曖昧なので、疎まれがちな言い回しかとも思っているのだけど、とはいえ、言われた時にまるで理解や想像ができないほどの言い回しってことでもないかなとは思っていて、困ってしまうほど解釈や判断がブレてしまう曖昧さでもないのでは、とも思うところはあるので、現状では、利用していることも間々ある。
▼▼ということを踏まえてみると、いつか、じぶんが、軽さと重さの判定や解釈の基準がまったく異なる人物と出会い、軽い重いについての話がぜんぜん通じず、ぼくにとってはこうなんですけど! と互いに罵り合うようなことになったら──つまり「ぼくが困ったら」、なるほど、こういう言い回しを推奨ないし黙認してるのは、マズイんすね、と思い始めたり言い始めたりはするんだろうな、と思えたりもした。
▼▼線引きが雑で主観的で曖昧である、といった状況が見せる問題は、結局、好き勝手なことが言えすぎて、相手の、言っていること、言えること、の幅がおおきくなりすぎてしまい、判断や解釈が難しくなりすぎる、ということにあるんだな、と、最近ようやく、構造を理解しきれたところがあったりした。▼▼普段から「境界線が緩いの駄目ー!」とか言ってくれている人は、普段からこのあたりのことを意識し、問題視していてい、予防しようとしてくれているんだな……、と理解できた。
▼▼でもまあ、言語はそもそもこういう問題を持っているよなあ、とも思った、し、最初からこういう問題がありうる以上、あること自体は問題ではなく、修正できないこと、コミュニケートの中で随時直していけないこと、のほうを、問題視すべきなのか、とも思うは思うのだった。指摘を受けた時に改善しようと思える、という機能が並置されているなら気にしなくてよい、的な雰囲気。並置されていない場合は別対策の立案を検討。


▼▼前置きをあまり踏まえらていないかとは思うのだけど、重めのボードゲームで遊びましょう、という呼びかけのもと、今回は集まった。▼▼『4人の容疑者』→『テラフォーミングマーズ』→『楽園の方舟』→『航海の時代 拡張入り』→『ダイスエイジ』という順番で遊んだ。『テラフォーミングマーズ』が想像より長くなって時間が不足した。遊び足りなかった。また遊ぶ。


4人の容疑者 湯けむりに消えた謎(プレイ二回目)

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▼▼16枚のうち除外した1枚を推理するゲーム。質問とメモに工夫が要ることの魅力が着実に理解できてきた。経験者優位が増す気もするけれど。
──最大10点中、5~8くらいの幅がありそうで、現状7点に重心。






テラフォーミングマーズ

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▼▼企業を担当して火星を開拓してゆく。世界的なランキングでもけっこう上位で、見合うほど嵌まっている。企業能力を使いこなせるところまで頑張りたい。
──最大10点中、5~10くらいの幅がありそうで、現状9点に重心。






楽園の方舟(初プレイ)

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▼▼やっと遊べた。沈みゆく島から方舟で資源を運び出す。アクションを決めるコマの動かしかたが面白い。得点システムも判りやすさと気持ちよさが高くて非常に好きだった。
──最大10点中、5~8くらいの幅がありそうで、現状7点に重心。






航海の時代 拡張入り(拡張は初プレイ・プレイ二回目)

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▼▼島々をぐるぐる回りながら資源をやりくりし、島に投資し、投資した島からさらに資源を貰って、と繰り返す。パズル的効率が楽しい。拡張がよい拡張感あって素敵だった。
──最大10点中、5~8くらいの幅がありそうで、現状7点に重心。






ダイスエイジ(プレイ二回目)

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▼▼サイコロが部族の戦士となり、狩りに出かけている。向かう狩り場は「出目」に左右される。気持ちよさが全体的に程よくて遊びやすい。得点が高めになることも素敵だし。
──最大10点中、5~8くらいの幅がありそうで、現状7点に重心。



4人の容疑者 湯けむりに消えた謎(テンデイズゲームズ)

4人の容疑者 湯けむりに消えた謎(テンデイズゲームズ)

テラフォーミング・マーズ 完全日本語版

テラフォーミング・マーズ 完全日本語版

ダイスエイジ

ダイスエイジ

gamemarket.jp
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好き意識

▼▼好きな物事、好きなやりかた、好きな切り口、を、意識し続けることで、深掘りしてゆき、物事と感覚を集中させていって、結果として、際立ったものが出来上がる、という状況は、比較的望ましいと思っている。▼▼とはいえ、独りよがりと紙一重だろう、とも思える。怖れているところもある。のだけど、じぶんの中の「好き」を注視し続けていることによる回復や快癒というものもあるじゃん、と思うこともあって、なので、総合的に見るなら、じぶんの「好きさ」を見るのを忘れているよりは見ているほうがよいのではないか、といった印象がある。▼▼「好きさ」のことを特に意識して見ていなくても、結局のところ、好きさに「沿っている」ことはよくあるのだけれど、意識的に見ていることの効能、というのもあるんじゃないか、って印象でもある。
▼▼如何なるものが好きなんだったかなー、という、迷った時に誰もが最後に辿り着くような場所、問い、って、普段から抱えているほうが──抱えている人のほうが、楽ちんというか幸せというか満足できるというか、比較的よさげな印象があるのだった。


▼▼満足感と自己満足、自己満足と視野狭窄、視野狭窄とつまらなさ、つまらなさと面白さ、面白さと満足感、といった回転や螺旋のことを考えつつ、ああでも、なんか、ぼくはこれが好きなのでここで頑張りますし踏ん張りますね! っていうの、あんまり意識しなくなってたら、なんとなく粗くというか荒くというか、微妙になってたな、と思ったりもして、このあたり周辺の諸々のことを考えていたのだった。