世界は称賛に値する

日記を書きます

歌詞での主語と断言と

▼▼歌詞を素直に見ていると、おおきめの主語を使ったうえで、しかも、断言的に語ってしまっている、ことが、けっこう多い印象があるのだけど、なんとなく許されている(見逃されている)ところが(ほかの言説と比較すると)ある気があって(っていうか「言説」ではないからでは……)、歌詞だと(──詩だと?)主語おおきめかつ断言でも、わりと許される、っていうところがあるのかなあ? って思ったあと、いや単に「歌詞だとおおきめの主語が使われていてもなんとなくちいさく(個人的な言説として)聞こえる──解釈されがちな雰囲気になる、もしくは、歌詞だと断言的な言葉使いが使われていても(リズムや響きや間、音楽性によって)断言だとは思い切れないニュアンスで解釈されがちな雰囲気になる、っていう情景があるんじゃないかなー、って、思い直した。▼▼歌詞に限らず芸術性ってそういうところあるのでは、という気もする。▼▼ポリティカル・コレクトネスの影響下の歌詞みたいなことを考えていた。

数字所有権と発想距離感

▼▼宇宙の星の所有権を買えますよー、的な雰囲気で、数字の所有者になれる、ってなったら、どの数字が欲しいだろうなー、って考えたりしていて、一桁の数字を持って、その数字が含まれていたら(描かれていたら)ぜんぶぼくのである(1の所有者なんだから431のうちの三分の一はぼくのものって言ってもよいんじゃないかなー)、って思ってしまうのと、おおきな数字を一つ、心に決めて貰う、のでは、雰囲気が変わる気がするし、意味のある数字(何かを想像、連想、比喩的に思い出せる数字)を貰うのと、無機質というか無感動で無感情な数字をあえて認識してみせるのは、まあまあ違いそうだし、でもって、数字を「順番」「何番目のもの」として見做すのと、数字を「個数」「物質的にその数がある風景」として見做すのでは、また異なるだろうな、って気もして、まあ、いずれにせよ、数字を一つ貰える、って切り口、けっこう好きだなー、と自画自賛的に思った。

▼▼うーん、じぶんの発想に向けて、素敵だ、と思うのは、自画自賛なのかな? というのも不意に思った。あんまり自画自賛であると思えていないせいだ。頭の中からごろんと飛び出してきたやつって「じぶんのもの」という感覚が、薄めなのだよなー。まあでも、誰かに褒められたりしたら、途端に「これぼくのだよー」って思い始めるところもある気がするので、若干、狡かったりも、しそうかな。いやでも貶されても「ぼくのだ」って感覚は出てくるか……。褒められた時だけ「ぼくのものである」と主張し始める狡さとは違う。なんというか、言及されると、客観感みたいなものがそばによってきて、そういう客観感を覚えると、あーやっぱりこれじぶんのか、って思い始める、みたいな機構なのかなあ。うーん、どうだろう。たぶん違うなあ……(違うんかい)。あ、じゃああれかな。じぶんの発想、思いついたこと、を、じぶんとは少し遠いところにある、として見つめてるの、なんとなく、単に、気持ちよいのだ。一人でいる時はわりとその気持ちよさに浸ったりしている趣味がある。夕暮れを眺めて黄昏れるみたいに、発想をぼんやり見つめて、距離を置いて、情緒に浸っている。ただ、誰かと接する時にまでそれをやるのは、流石にやりすぎなので、ちゃんとじぶんのものとして扱う、的な挙動では、って思った。

嘘つき門番の四月一日

▼▼二つの門(天国と地獄に繋がっている設定だった気がする)が立ち塞がっていて、それぞれの門の前に門番がいて、どちらかが「絶対に嘘をつく門番」でどちらかが「絶対に正解を答える門番」である時、正解の門(天国につながる門)がどちらであるかを知るために、一つだけ問えるとしたら、何を問うか、という問題があるけれど(最初にこのなぞなぞ(なぞなぞか?)を聞いた時、感動したなー)、こういった空気、こういった構造、を活かして、四月一日に漂う嘘的な空気を乗りこなしてみせる、のが、わりと楽しそうかな、って思った。

好き贔屓

▼▼なぜ好きなのか、なぜ嫌いなのか、っていう嗜好の深掘りの話が好きだ。なぜ嫌いなのか、ということを突き詰めていくうちに、勘違いや筋違いに気づいて──認識できるようになって、最終的に、わりと好きになってしまう/思いのほか好きになってしまう/妙に好きになってしまう、というような現象も好きなのだけれど、こういった現象に関しては、逆のほう(結果的に、なんとなく嫌いになってしまう型)は、ぜんぜん好きじゃないので、好きなのが好きなために好きを贔屓しているぞ、と言えるところがあって、だからまあ、あんまり公言するようなことでもないのかな、って思ったりすることもある。
▼▼と考えていたところ、じゃあ依怙贔屓はすべて秘されるべきなのか?という問いが飛び出してきて──、まあ、こういう「問いかけ」を抱いたら、抱いた時点で、いやそんなことはありませんよ、と答えたくなる性分であり、今回もまた、いやそんなことはありません、と、結論するに至ったのだけれど……(とはいえ、時々は、いやいやそりゃそうでしょ、妥当でしょ、そこをいちいちわざわざツッコむのはちょっと手癖が過ぎるだろ、と結論できることもある)。


▼▼好き嫌いを深掘りするような話、議論討論、によって、好きという気持ちが──楽しさや面白さ、満足が、結局は増えちゃうんじゃないか、って、信じているところがあるよなー。信仰と信奉、経験則、期待および楽観の話になるかな。

ほかの業種、文脈から(ほかの業種、文脈を踏まえられる、という感覚)

▼▼越境的に、ほかの業界からやってきたことによって、異質な文脈、新鮮な常識、特殊な感性、変梃な技術、が持ち込まれて、運よく程よく活かされて──うまく働いて、結果的に、非常によいものが出来る──出来上がっている、ということが、時々はあるかと思うのだけど(でもって、だいぶ好きな状況なのだけど)、こういった状況の中にある「こことは異なる業界のことを、一通り知っています、あるいは、詳しく知っています、だから、活かせますよー」という(と思えるだけの)自負、自信、のことについて、数日前に考えていた「ここに一家言ある、という自認、って、あやうそうで、でも、とはいえ、やはり頼るのがよさそうだし……」という切り口を重ね合わせながら、考えていた。


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▼▼あいかわらずボードゲームが非常に好きなわけだけれど、うーん、例えば、ボードゲームをじぶんで作ってみよう、と思い立ったような時に、ボードゲームとは異なるところの、こういう場や空間のことについては、まあまあ詳しい(と思えている)から、ここを活用して応用して悪用して、作ってみようじゃありませんかー、って思える瞬間が、当然あったりすると思う──思うのだけど、こういう時の「このあたりの知識を、まあまあ活かせるだろう」「手に余る、という感覚はなくて、つまり、コントロールできそう、と想定できる」「利点や美点を把握できているので持ってこれるだろう」とか思えてしまうことの、怖さおよび大切さのことを、改めて整理せんとしていたのだった。

目のコントロール

▼▼目、眉間やまぶたや目尻、付近の、筋肉のコントロールによって、気分がおおきく変わるなー──ほかのところより影響がおおきそうだ、というのを、最近、富に感じる。冷酷に睨み付けるのと温かく見守るのと静謐な目で無心無関心を貫くのでは、ぜんぜん感覚が違うんだな、と思う瞬間が増えた。こんなに変わるんだ、と驚いたりしている。ここを変えればよいのか、と判断し、変えようと決意してみせることによって、調整が可能っぽいぞ、可能になる範囲がおおきいぞ、ということを、思ったりもしている。
▼▼気分を調整したくなって、目がけっこう影響与えているな、って思う。思いたくなる場面が多い、ということでもあるんだろう。
▼▼最近は、なんか、改めていろいろと「楽しく」したい雰囲気がある。解釈し直し、をけっこう頻繁に試みている。加齢および経験により、人類の意識や感性、判断、等々に関しての情報量が増えすぎてしまい、情報処理が間に合わず、溢れてしまっているところがあって、混乱や混線もだいぶあって、なんとなく、真っ直ぐ楽しみきれなくなっていたところがあったのだ。ということの、再調整を、最近は志している。溺れないように整理し直してみたらわりと綺麗に片付けられそう、という予感もあったりはしている。