世界は称賛に値する

日記を書きます

因果・論理・意味や価値

▼▼人間が物事を見た時に、因果を「視」てしまう、言葉に論理を視てしまう、意味および価値を視てしまう、といった認知機能について、ぜんぶ同じ「眼」の別側面の話なんじゃないかな、って感じることがあるのだけど、うまく言語化できていないな、って思ったりもしつつ、ぜんぶ「繋がり」を視る、ってことか、って思いついたりもした。

記憶をなくしてもう一度

▼▼記憶をなくしてもう一度最初からこの物語や作品に触れたいぞ、とか思うことがけっこうよくあって、けっこうよくある(と言っても年一回~年二回くらいな気がするけど)、ということが「記憶がない状態で出会う」ということが繰り返されている証左だろ、と思ったので、幸せなことだ、と結論した。

まったく同じ意味の単語を人類は存続させられなそう

▼▼類義語や対義語を観察してるのがだいぶ好きで、趣味、って言えそうな雰囲気なのだけど、類似や対立ではなく「まったく同一の意味の単語」というものを、製造する力(というか維持するチカラ)が、人類にはなさそうかも、って、ふと思った。
▼▼同一の意味を持つもの、として、ある言葉をまず作ってみたり位置づけてみたりしたとしても、見た目、音韻、辿ってきた経歴や使われた場面、とかを活用して応用して悪用して、ほのかに異なったニュアンス、若干のズレを際立たせる使いかた、を、いつしか持ち出し始めてしまう癖を、人は、持っている印象がある。


▼▼人は、単語に対して、広義と狭義、的なものをいつだって求めていて、だから、同一の意味の単語がもし目の前にあったとしたなら、片方に広義を、片方に狭義を、背負わせようとしてしまう──同一だったはずの二つの言葉を、少しずつ異なるほうへ進ませてってしまう、ような、習性がある──、というような想定かなー。


▼▼単語X、と、単語Xと同一の意味を持つ単語エックス、があったとするなら、普段は単語Xを使っておいて、特殊な事例の時に──厳密な話がしたいとか読み手の気を引きたいとかそういった状況の時にのみ、単語エックスを使う、っていうようなやりかたがありえて──無意識にそういうことをしてしまっていることもありうると思えていて、人類というのはわりと、そういうテクニックを沢山使ってきてる気がする、のであった。ちょっとした変化、違和感、新鮮味、を、複数単語の境界線に、背負わせる、という切り口とやりかただ。▼▼まあ、このあたりの言葉の拡がり(わりと勝手な拡がらせかた)が、知性に貢献しているところもありそうかな、と思う。

一家言あると思い込めているところの機微

▼▼ここに関しては一家言あるよ、というような自認に対して、あぶなっかしいな、とは思うものの、生きる指針や生活の武器として──世の中や人生に関しての「当てにしようと思えるところ」として、こういった認識や感覚に頼るしかないじゃん、というところもあるなあ、と思ったので、調整がムズイ、と、改めて思った。

漢字から探偵

▼▼文法の別名として、統語論、統辞論、構文論、というものがある、と言われたら、なんとなく納得が増したりする。統語、統辞、構文、といった言葉が、なるほどねえ、このあたりを見ればよいのだな、と教えてくれるところがあって、結果、理解と納得の密度や精度が増える雰囲気だ。語を統べること、文を構築すること、というふうに、単語上の漢字から意味を類推することで、想像の緻密さがより増幅されたりする。
▼▼対比関係に意味論というものがあって、包括関係として音韻論と形態論がある、という情報も(あとは、統語論の近所に、実際の運用にフォーカスを当てた「用語論」というものがある、という情報も)、境界線をくっきりさせてくれる。理解のヒントになる。


▼▼といった雰囲気で、一つ一つの漢字が持つ意味を見つめていきながら、言葉の意味/境界線/定義を探っていく──探り当てていく、という行動が、楽しいな、と、けっこう頻繁に思っている。こういう探偵行為を趣味にしているところがある。