世界は称賛に値する

日記を書きます

経験則の束縛ははね除けろ

▼▼でも描いておこう。▼▼世界は複雑怪奇である。複雑で──強く困難な敵で、理論化などで拭い切れるものではない。抗い切れるもの補い切れるものでもない。だから、ある理解はある理解を排除してしまう。少なくとも可能性としては「排除してしまうかも」を残してしまうだろう。電車に乗るためには定時の五分前に出れば間に合うぜという経験則が──誰かを慰めたいなら優しい言葉をかけましょうという経験則が、ほかの可能性や道筋を抹消「しうる」だろう。世界はそうして落ちぶれてゆく──「かもしれない」。
▼▼経験則は再構成の余地がある、ってことは無論知っている。認識していて──理解もしているつもりで、だから、意識せず抹消してしまっている道を再度見つけることだって可能だ、っていう判断だって持てている。可能性の拡大を可能にする行為、を、経験則という機構に、最初から組み込んでおくことだって、できている。できているのならあとは定期的に確認しておけばよいのでせよ、って思うことさえ可能になっている。
▼▼なんていう理路により、経験則には常に抗っておかねばな、って考えている。っていうのさえ所詮は経験則だからここも争点であり決戦場であるぜとすら思うけど、あくまで決戦場は言ってみただけだ。▼▼経験則は楽しい武器なんだけど、性質上、構造上、間違いなく肥大化してしまうものだから、強くなりすぎて、頼りすぎて、意識せず支配されてしまう可能性があるし、で、振り回されたり、世界をつまらなくされたりしたら、嫌だから、浄化や点検を巧くやっていこう、っていう話がしたかっただけ、かなー。