世界は称賛に値する

日記を書きます

記憶

▼▼記憶できるかどうかって曖昧で、確実な統一性はない。この瞬間この場面だけなんで憶えてしまっているのだろう、とか思える記憶って多いなあ、という話だ。学校帰りの電車の中での微睡みとか、数百回は繰り返したことがあったと思うのに、強く憶えているのは、特別何事もなかったような日のある日の夕暮れだったりする。空いた車内で、文庫本を持って、窓からの陽の光を浴びながら、ぽかぽかと微睡んでいた、みたいな記憶が例えば残っている。おそらく、何かが印象的だったのだろう。特段何事もなく、というのが嘘なのかな、ということだ。特筆すべき何事も、実際はあって、けれど憶えていなくて、だけど印象的だった、のではないかな? いずれにせよ、記憶に残るかどうかは選べない面がある。無論確率を上げることは可能で、つまり傾向はあるので、まとめあげると、記憶術とか言われるものになる。記憶に関する判断のようなものは最近だとこういう感じだ。
▼▼前提の話終わり。
▼▼という前提の話で整えて、書こうとしていたことが、あったような……。忘れた。
▼▼記憶というものに頼る行動管理システムは、だから不味いよなー、なんてことを、少し考えていたような気がする。情報に接するたびにサイコロを振って目が1もしくは2の時だけ記憶できる、みたいな不安定極まりない要素を、前提にして、行動管理システムを組むのは、巧くないだろう。だから、時間管理や行動管理には、記憶、という要素は、むしろ一切なし、くらいでよい。難度は上がるだろうけど安定性は格段に上がる。とか考えていたような気がしてきた。けど、違和感もあるな。活かすことも考えたいせいだろう。
▼▼読書というか情報摂取全般において、記憶が運任せで消える、ってことも前提に摂取していかないと駄目、とかも考えていたように思う。読み取ったものすべてを憶えていることはまあできない。でも、何かが残ることがある。というのをまず前提にしようと思うのだ。ある思考に出逢って、過去に読んだ、過去に触れた、何かが、浮かび上がってくることって結構ある。でも浮かんでこないこともある。というランダムな心地を、逆に活かしきってみせようぜ、みたいなことを企んでいる、のかなー。巧くやれば新しい楽しみを形作る「核」にできるんじゃないかな、みたいな。若干混乱中なので再考の余地ありか。