世界は称賛に値する

日記を書きます

シンデレラ的金曜日

昨日の感想と最近の思索

→ 言葉や文章は「読む時」と「作り出す時」では強度や深度みたいなものが全然違うなーって思った。ここまで「まるっきり違う」みたいに強く実感したのは初めてなんじゃないかと思う。

→ 書く時、と書かなかったのは、実際の状況として書いてはいなくて、思い出そうとしただけだったからだ。それだけで全然違ったし、むしろ、書くより思い出すことのほうが――すべてを脳裡で処理しようとするほうが、強く深いところに繋がるんじゃないか、って思えたりもしたからだ。書くって行為は、わりと、慣れてくると、手癖や手慰み的なことができてしまう気がするので、浅く処理できてしまうかもしれない、って感じられる。

→ 普段通り文章を読んでいた時に、ある文章を読みながらその意味する形や光景を脳裡に描いてみて、それから、なんとなく、次に、直前に読んだ文章から目を離してまったく同じ文章を脳裡に書こうとしてみたら、感触が全然違ったのだった。

→ 読んだ時のほうが明らかにぼんやりしていたし、言ってしまえば、あんまり現実的ではない感じで、雑だった。粗雑な観念が頭にふっと浮かんで、それだけだった。で。たとえ直前の記憶をなぞるような形でも、言葉を自分で積み上げてみたら、それは、なんていうか、自分の経験や人生を切り取ったようなものに変質していたのだった。深度が深く、強度が強かった。現実に肉薄しているなー、って素直に思えた。普段眼前のものと向き合っている時に感じているのはこちらに近いものだよな、って思ったのだった。

→ この強弱において、いろいろ考えてみて、様々な表現を模索してみることはおそらく可能だろう。芸術という分野でならその試行錯誤は非常によい意味を持ちうるだろうとも思える。なので、深度的に強度的に弱いから駄目、とかは安易には言えないかな。記憶や学習の効率を求めるなら「強いほうがよい」とは言えそうなのだけど、無論それが価値のすべてってわけじゃない。

→ つまりこれが「アウトプットが重要」って言葉の向いているところかあ、と思った。スローリーディングって奴もこの範疇にあるんだろうか。

→ とりあえず、個人的には非常に革命的な――新しい認識だった、と言える。

→ 自分の言葉でいいから書き写せ、とか、模倣や物真似することが大切、とか、いわゆる写経とか、まずは型を学びそれから壊せとか、まあこのあたりはすべてそのあたりを活用しようぜということなんだろう。小説は読んでいるだけじゃ書けない、とかも同じところかな。

昨日の備忘録

→ 「いま私たちが考えるべきこと+寝ながら学べる構造主義」を読んで、読んでみようかな、って思った。問いを立てて、問いの内部にある概念の整理から洗っていくような思考の進めかたが、だいぶ好きである。

→ 「十文字青の小説」が地道に増え続けているようだ。『ぷりるん』がほぼ迷いなく「すごいもの」だったので、拡げてみようと考えている。燃え尽きるのは避けて欲しいとも思う。

→ 『太陽を曳く馬』の話を記録しておこう。楽しそうだ。「しかし待て。個人にとって死が欠如そのものであるなら、あらゆる縁起から逃れてただ行為のために行為するような行為によって決定されると言われる自由も、また永遠の欠如であり続けるか。とすれば、死はなんと仏なるものに似ていることだろう!」

→ 『完黙 捜査班』の話も記録しておく。『ザンヤルマの剣士』の麻生さん(麻生俊平)の新刊のようだ。近況は詳しく知らなくて、でも読んでみたくなった。って言える程度には褪せることなく好きなのだろう。

→ 「さっちゃんに学ぶ片付けの心得」を読んで、布団は捨ててしまえ、って話が出ていて、わりと衝撃を受けた。新しくて、けれど、納得がいって、つまり、思い至らなかったことに敗北感的なものを覚えたのだった。確かに占領を許すほど稀少で貴重なわけではないな、って思ったことがなかった。

→ 「言語とはなにか 書く、伝える、遺す」って記録文章を読んで、言葉について思索を巡らせてみた。長尾さん(長尾真)と円城さん(円城塔)の対談のまとめで、機械と意志の話でもあるかなあ、なんて思う。