世界は称賛に値する

日記を書きます

スーパーマリオは主体の夢を見るか

▼挙動の自由をまるで持たない者が、ぼくはぼくだ――ぼくはここだ、という認識を持ちうるんだろうか、と考えていた。勝手に――自動で、動いてしまう躰を眺めて、ぼく、と思うためには、どういう精神構造が必要になるのだろう? 思考や判断が自由を謳歌しているなら可能だったりするのか? 行動は縛られているけど、考えることは自由だ、という状況なら可能なのか? 可能な印象はあるかもだ。が、思考だけが自由なのも実際はわけがわからない。というか、ずるいと思ってしまう。何故思考だけが独立独歩を許されるのだ と、むしろ思ってしまう。思考や判断すら、途切れて、途絶えて、つまりは制御を奪われて、なお「ぼく」を維持することは可能なのか? というところまでは、やっぱり考えてみたい。ぼくはぼくを制御することができる、という、若干錯覚の混じっていそうな認識と、ぼくはぼくだ――ぼくはここにいる、とかいう認識は、切り離すことができるのかどうか、とかいう問題提起を、妙に楽しんでいるのだった。切り離せるなら次代へゆけるだろう、とか、勝手に予感しているんじゃないかと思う。何故なら癒着の匂いがするからで、制限になっている気配があるからだ。不自由の苦しみを何とかしたい、という狙いなのかな。けど、不可避の不自由を、いかに克服するか、あるいは解消するか、というのは、懸けるに値する問題なのだと現段階では判断している。のだった。