世界は称賛に値する

日記を書きます

めぐまれていたこと、めぐまれていること

▼めぐまれているんだろうな、と思った――めぐまれていたんだろうな、と思った。めぐまれていない、という言葉が脳裏にこびりついて、払拭できなくて、打破できなくて、無視すらできず、だからこそ、そのことに気がつくことができた。たぶんできた。
▼世界は多様すぎて――複雑すぎて――膨大すぎて、人間には処理しきれない。人間の性能では咀嚼せずに嚥下しきれない。だから人間は、おのれの持つ「解釈機能」を活用することで、混沌とした世界から「理解可能な姿」を削り取り、奪い取り、掠め取るのだ。というような世界観を持っている。以前から変わらず、だ。強いて言うなら、処理しきれない、とか、対応しきれない、という「限界」が理由なのではなくて、単純に丸呑みしてしまうよりも「解釈」によって「世界」から「意味」を「見つける」システムのほうが「効率的」だったからなのかもしれないな、とは思っていたりもするけれど。
▼でだ。
▼正直言って、私はその「解釈機能」を「操作できるもの」だと思っていた。好き放題やれる、とまでは言えなくても、わりと好きなように操作できるはずだ、というような判断があった。という言葉が過去形なのは、無論「操作できない」瞬間があったからだ。しかも、操作しようと実践してみて操作できなかった、のではなくて、そもそも「操作しようと思うことができなかった」ように思える。操作しようと思おう、という「言葉による思考」があってすら、実際には「操作しよう」と思えなかった。厳密に言うなら、持続しなかった。すぐに諦めてしまったのだった。だから、これは操作できないものなんだと考えを改めた――わけでは全然ない。実際は、ある程度は操作できる、のだけども、やはり条件によってはできないこともある、という形で、認識を複雑化して対応してみただけだ。
▼でもって。
▼条件によっては「できない」というよりは「そもそもする気にすらなれない」という瞬間がありうるのだ、ということを、改めて認識させられた。というか、世に存在する「できない」は、おおむねこういう「する気にすらなれない」なのかもしれない、とも思う。