世界は称賛に値する

日記を書きます

ペガサス流星拳とグレートホーンを贈呈予定

▼誘いを受けて深夜にネコ邸へ向かう。朝まで遊んでいた。最近はなぜか『ウイニングイレブン9』が再流行している。協力プレイでの対コンピュータ戦を行っていた。かなりの敗北が続いていた。連携が取れていなかったせいだろう。協力プレイはこの『思うようにいかなさ』が醍醐味なのだろうな、なんて考える。些細な失敗の応酬と責任のなすりつけあいが素敵だった。だいぶ笑った。無論、うまく連携が取れれば快感だった。▼解散は午前10時で、集合は午後2時だった。アルバイト時代からの友人がついにアルバイトを辞めてしまう、という話を聞いていた。だから送別のためになにか贈ってやろうぜ、という流れになったわけである。うだうだ話しながら、さんざん迷っていた。ドンキホーテやら東急ハンズやら丸井やらを見てまわる。最終的にはおもちゃ屋に辿り着いていた▼別れをなぜつらいものとして捉えてしまうのか、ということについては、送別会などで哀しさや寂しさを感じるたびに、なるたけ考えるようにしている。というか、考えてしまう。しかし、まだ明確な答えを出せてはいない。対象が失われることでかつて感じた楽しさを再び味わうことができなくなってしまう、という予感が、寂寥や不満を呼び起こしてしまうのだろう、なんて考えていたりはする。のだが、単純すぎるだろ、とも思うのだ。▼この哀しさや寂しさは私の抱える理想のもとではどう判断すべきものなのか、ということと、この哀しさや寂しさをどう扱えば理想とする境地へ繋がる足場にすることができるのか、ということも、考えてしまうことが多い。むしろ最近の私は、与えられたほぼすべての経験を、この『私の理想のもとではどう判断されてしまうのか』と『どう扱えば私の理想に繋げることができるのか』という問いの前に横たわらせているようにも思う。