世界は称賛に値する

日記を書きます

好きなものに変換していく道、で、戦ってきたものたち

 おもしろいもの。素晴らしいもの。楽しいもの。素敵なもの。美しいもの。輝かしいもの。わくわくするもの。心躍るもの――なんにせよ、好きなもの。おそらく表現の問題ではないんだろうな、と思う。どう言いたくなるにせよ、とにかく、こちらのほうが良いんだろうな、と感じられるもの――こちらを選んだほうが良くなるはずだ、と信じられるもの。こちら側に属するものを増やしていくこと、が、人生を『より良いもの』にしていくこと、に繋がるんじゃないかな、と、現状では想像している。だから、いかにすれば『良いという領域に属する気持ち』をたくさん感じることができるようになるんだろうか、というのが当面の課題だ、と認識していたりもする。頻繁に考えてしまう、わけだ。すでにいくつかの関門を突破してきた、と思う。最初に、嫌いなものを好きなものに意識下で変換することなんて人間にできるんだろうか、という関門があった。第一の関門。第一の関門は、パラダイムが転換すると気持ちなんてあっさり変わるもんなんだな、という知識を活用することで乗り越えることができた。視野を広げてみたりすると一見つまらなそうなものもきちんと輝いてたりするもんだ、ということを、うまく経験から抽出して、嫌悪感に影響を与えるような形で応用してみた、のである。第二の関門は、嫌いだと思っているものをわざわざ好きだと思わせる必要なんてあるのか、という関門だった。門の前に立ちふさがっていたのは、嫌いなものがあるからこそ好きなものが引き立つんじゃないか、と叫ぶ門番、と、嫌いだという気持ちを持つことはとても重要なことなんだ――嫌いだという気持ちを味わわせてくれる『直観的な判断』は人間にとって死ぬほど有用なものなんだから、と叫ぶ門番、であった。前者は強敵だった、と言える。仮説と信念を伝えることで無効化することくらいしかできなかったからだ。ゆえに、殲滅できた、とは今でも思っていない。嫌いなもので引き立てたりしなくても自身の持つ力できちんと輝いてくれる『好き』があると信じているんだ、と伝えることによって退いてもらったのである。無論、きちんとそれを追い求めていくつもりだし、いつか手にできると信じていたりもする、ということも伝えておいた。得心してくれていたから、しばらくは敵対しないでくれるだろうと思う。後者も決して弱敵ではなかった。が、撃退することはできた、と思う。好き&嫌い、と、肯定的な気持ち&否定的な気持ち、を、別のステージで取り扱っていけば、人間の持つ『直観的な判断』を捨てることなく、好き嫌い、を超越することだってできるのではないか、と考えられたからだ。ただ、油断するとこいつも復活しそうだな、とは思っていたりする。から、人間の視野なんて所詮は『限られたもの』なんだからそんな『直観的判断』なんて別に捨てちゃってもいいじゃん、という捨て身の攻撃を繰り出して粉微塵にしておくべきだったのかなあ、と考えたりもする。のだけど、人間の持つ直観ってのはなかなか侮れないものなんだぜ、という話を聞いたりすることもあるので、無闇に捨て身の攻撃なんてしていたら逆に倒されていたかもな、と思うのだった。まだこのあたりだ。