- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/07/15
- メディア: 文庫
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P.145
紅子は土木構造については専門ではない。しかし、その理由は容易に想像できた。すなわち、新しくものを構築することに比較して、一度成り立ったものを再建することは、はるかに容易なのだ。それはつまり、ものを作るプロセスのほとんどが、何をどう作るべきなのかを考え、判断する作業に割かれるからである。しかも、その判断には、現状を正確に把握するための調査、測量が必要だ。そういったすべてが、同じものを作るときには省略できる。さらに、今回の場合は、橋の基礎部分が壊れていなかった。仮架橋には基礎工事も不要だったわけである。
これと同様のことが、人間の思考にもいえるだろう。
考える筋道が決まっている対象は、答を得ることが容易である。試験に出題される数学の問題がこれに当たる。それらは、約束された道筋の途中で、幾つかの橋が落ちている状態に等しい。かつて一度は通ったことのある道、架かっているのを見たことのある道である。そういった場合の「謎」を解くことは、単に計算時間の多少の差があるだけの問題であって、とにかく、すぐに工事にかかれば良い。
この種の問題を数多く解くうちに、人は頭の中に数々のラインを構築する。道筋を覚え、多くのマップを描く。
だが、それでも……、
もちろん、かつて経験のない謎に出会うことがあるだろう。
たとえば、紅子のように、研究の最前線に身を置けば、そういったことは日常茶飯事である。
だから、この種の謎に自分が直面すると、
その未知の謎、
先の見えない新しい峠、
突然現れるマップにはない峰、
かつて橋が架かったことのない谷、
そういったものに対峙している自分を、嗅ぎ分けることができるようになる。
今が、それだ。