世界は称賛に値する

日記を書きます

楽しいから頑張れる

 おそらく私は『強い』んだろう。これは自慢ではない。無論皮肉でもない。単にこの性質はそう表現すべきなのだろうな、と思っただけだ。私は『精神をコントロールする』のが好きだ。自制すること、自律すること、心を理性と理想に則して操作すること――そういった行為そのものに楽しみを感じることができる。だから基本的に、感情を変化させたり抑制したりすることがそれほどつらくない。きついことを『試練だぜこれを乗り越えれば俺は成長できる』と解釈し直して『楽しみ』にしてしまう、みたいな感情的操作も、つらさを感じることなく行うことができる。そういった操作そのものが楽しいからだ。これはまあ『強さ』と呼んでいいのではないだろうか、と思う。だが、この性質を持たない人もいるはずだ、とも時おり思う。そして、そのことについて考えるとき、私は、他人に自律系の努力を促すことを、安易に肯定できなくなってしまう。なぜなら、繰り返しになるが、私にとって自律や自制、つまりセルフコントロールは『楽しいこと』だからだ。楽しいことを肯定するのは簡単である。だから私は、簡単にセルフコントロールを肯定することができる。簡単にその方面で努力することができる。だが、誰もが私と同じようにセルフコントロールを楽しめるとは限らない。誰もが私と同じようにセルフコントロールを楽しみとして肯定できるとは限らないのだと思う。そして、もしそうだとすれば、私が安易にそれを促すのは、言ってしまえば傲慢なのではないだろうか。たとえばこれは、本を読む行為に快楽しか感じない人間が、本を読むことに苦痛しか感じない人間に対して、本くらい読めよ、と言ってしまう傲慢、あるいは、車酔いしない人間が、車酔いしてしまう人間に、車酔いなんて気にすんなよな、と言ってしまう傲慢、のようなものだろう。結果として私は、自分は自律系の努力を推奨することはできても、強要することはできない人間だ、と考えるようになった。と同時に、人のことを考えるときにはきっとそういう視点も組み込んでおかなければならないのだろう、と考えるようにもなった。誰もが努力できるとは限らない、のだ。努力できることも才能、とはよく言ったものだと思う。ただしこの思索は『人間が成長する可能性』をあまり考慮に入れていない。そこは微妙。