世界は称賛に値する

日記を書きます

自己肯定と自己正当化、を並んで目の前において、浮かんできた頭の動き

▼▼自己肯定と自己正当化を比較する、っていう話題を見かけて少し頭を回してた。興味深かった。以前に自己顕示欲と虚栄心を並び立てたこともあって、近似する話題かな、と思った。好きな話題周りなんだと思う。自尊心と自負心、という切り口も見かけて、納得したりもした。このあたりの整理を進めてみたくはなった。
▼▼じぶんを対象にした心の動き達。と言うと自意識や自覚も入ってくるかな……。
▼▼評価的行為や認識機構の話題を整理する時に「下地となる物差しの違い」で整理してみるのが好きなので──整理癖がついていて慣れているので、正しさと間違い、優等と劣等、正義的な善し悪し、存在的なよしあし、などの「物差しとしているもの」が、おのおのの単語が見せる雰囲気の違い、に繋がっているのでは? 形作ってるのでは? とかいう説明を築きたくなったのだけど、整理途中でだいぶ破綻の匂いがしてきたので、完全整理は「少し」諦めた。粗雑でよいのでメモ書き程度残しておこう、と目標を下げてみた。
▼▼自己肯定は世界目線? 自己正当化は社会目線? って説明は思い浮かんだ。
▼▼自己肯定は存在面、自己正当化は正しさ面、という説明も浮かんだ。
▼▼自己正当化っていうのは言論空間におけるものだろう──世界を言語化しないと発生しない、とか、言葉でどう説明できるかが鍵、とかいう説明も思ったのだけど、このあたりは混乱が濃いめかな……。正義ってのは言葉を使わないと出てこないのでは? って認識があるので、ここからの派生だろう。思考の糸口程度には出来そうかな……。
▼▼自己肯定は「世界を見つめている人間」として動かせる気持ち、自己正当化は「社会に立つ者」として動かせる気持ち、ってのは言える気はやっぱりする。肯定感は「ぼくはこの世界にいてよい、って思える感覚」に繋がっていて、正当感は「ぼくはこの社会の中に立つことを許されてる、って言える感覚」に繋がってる気がする、のだ。
▼▼で。
▼▼世界/社会にまつわる別の切り口として、社会は世界の内側にあるのである、と見做してみることは、まあできそうな気がするので(明瞭に言い切れてないのは、人間ってのは結局「社会」の延長線上に「世界」を夢見てるだけなのでは? って疑問も持ってるから、であり、だからまあ「世界」を自明視してよいか迷いが出ちゃうし、だからって「社会」ばっかり見てれば妥当!自然!人として正しい!とか言われても……、って気もするし……。まあ置いておくか……)、社会ってのは世界の内側にある──一部だ下部だ、と見るのなら、社会的「自己正当化」は世界的「自己肯定」の内側にあるものだろう、と見做すことだって可能では? って発想も浮かんだりはした。
▼▼自己肯定的な運動の一つ、としての自己正当化、って整理になるかなー。
▼▼けれどこうやって、自己肯定を基盤や総称とし、自己正当化を「自己肯定の一つ」と見ようとすると、自己正当化の強さ、派手さ、出しゃばり具合、が、妙に気になってくるのだった。下位に置かれてるにしては特権的すぎない? 的な違和感が湧いてくる。
▼▼自己肯定という部署に属している課の一つとして見るには、コイツらちょっと強すぎない? というかな……。ほかがぜんぶ肯定的に動いてても自己正当化課が否定的なこと言い始めたら潰されそう、というか……。特殊な権限を持ってそうに見えるのだ。
▼▼まああれかな。実際的な話、ぼくらは、普段、社会の中に立つ者としてばかり意識させられるところがある、かと思う。社会ってのはつまり「対人間」的な場面なのでは?と言える気もするし……。対人間の状況の時に起動する回路を「社会性回路」とし、対人間の場面って比較的多いよねー、とするならば、社会性回路を使う率は高くなる、頻繁に出動するため影響力も強くなる、なんていう話に出来るかな、と思った。
▼▼世界より社会のほうが範囲が狭いぶん、影響の密度や濃度が高くなるのでは? って比喩によって別の攻めかたができる気もした。まあ似たような認識を辿る気もするけど。
▼▼うーん……。
▼▼なんか自己肯定と自己正当化の「配置」ばっかり考える羽目になってて、挙動分析とかまで辿り付けてないなあ。しかも配置もぜんぜんうまく整理できてないし。
▼▼世界に思いを馳せるような気持ちの時に起動する回路、と、社会を見つめる時に起動してくる回路、における、ぼくはよい感、ぼくは正しい感、オッケーオッケー感、を、肯定感と正当感で整理しようとしたのだった、と改めて見直ししておく。
▼▼やっぱり、上位と下位、全体と一部、で考えるのビミョーな気もするなー。
▼▼至極単純に、世界回路と社会回路の二つが並置してあって、見るものにより起動するソフトが変わる、でよい気もする。▼▼フィードバック的にはいちおう繋がってて、社会ソフトから世界ソフトへの影響のほうが「ぼくの場合は強い」とかでもよさそうかな、と思いついたりもした。世界観による違いが──個人差が、あるのでは、とも思う。