世界は称賛に値する

日記を書きます

特別じゃないお出掛け

▼▼関西まで出掛ける。旅慣れた、とは言えるかなー。旅? という違和感はあるな。日常の延長線上で認識しているからだろう。特別視してはいないと思う。無駄に特別視して腰が重くなるのが厭なんじゃないかなって思う。可能なら世界はすべて庭くらいの無茶な認識は持っておきたいぜっていうのはある。▼▼特別だ、と思ってよいものなんてあるのかなー。特別視の憂鬱みたいな――際立たせることがむしろ逆効果みたいな――特別扱いしないでくれてありがとみたいな、状況はありうるだろうけど、同時に逆だって可能性はあるわけで、注意深さの問題にはなるのかな。世界は注意深さの問題ばっかりだ。▼▼言葉にするだけでも「特別扱い」って言えたりはするだろう。することもあると思う。普段通りの自然体であっても、特別扱いや特別視に陥ってるようなことは、ま、あるんじゃないかな、って思う。むしろ、認識機能における「線引き」や「重みづけ」が、すでに「特別扱い」の源泉であり原初ではあるのだろう、ってことも思う。▼▼でも、思わないほうがいいのかなー。線引きやら重みづけやら程度のことで「特別扱い」なんて概念が適用可能だと思うなよフフ……、みたいな無謀な覚悟がアリなのかもだ。特別視の定義をもっと複雑怪奇にしておこう、とか画策してみるといいんじゃないかなー、あたりで。

あなたの勉強法はどこがいけないのか(西林克彦)P.22

あなたの勉強法はどこがいけないのか? (ちくまプリマー新書)

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 少し視野を広く持てば、人は必ずしも何もかもできる必要があるわけでも、何もかもできないと困るわけでもありません。そもそも、何もかもできる人なんているわけがありません。ただ、ある分野のささいな「できない」ことがコンプレックスとなって、その他のところでも必要以上に臆病になってしまうことになるのがまずいのです。
 さて、ここからが私の最も言いたいことです。それは、必要以上に「できない」と感じて臆病になってしまうのは、「できない」ことの理由を、自分の一般的な能力のせいにしているからだということです。
 ここにたとえば、ある問題が起こっていて、その問題は解決「できない」けれど、解決できない理由はその問題を解決するのに必要な知識のほんの一部だけが足らないからだ、とはっきりわかっている人がいるとしましょう。その人は、その問題が解決「できない」からといって、その問題が関係するすべてのことについての自分の能力や、もっと一般的な自分の能力のなさ――たとえば頭が悪いといったこと――を嘆いたりはしないでしょう。おそらく、その人は「あの知識が足りないから、いまはこの問題は解決できない」としか考えないでしょう。
 自分の得意、不得意をきちんと自覚している人は、あることが「できない」からといって、自分の一般的な能力に関して不安を持つことはまずありません。「できない」こと自体は、必ずしも自分の能力に対する不安感と直結したものではないからです。問題解決に必要な知識についてきちんと知っていて、自分をきちんとわかっていれば、「できない」からといって、その理由をすぐさま自分の一般的な能力が足らないからだと考えたりはしません。そのことをきちんとわかっていないから、できない原因を自分の一般的な能力が足らないせいにして、必要以上に臆病になってしまうのです。
――P.22