世界は称賛に値する

日記を書きます

可視と埒外のバランス

▼思考や嗜好のシミュレートは時おり行なうことがある。近似した感性を再現してみせることがある、のだ。再現できた気になっているだけなんだけど、とは無論思っている。視線や観念をうまく動かして、胸中の「重視」を活性化したりマスクしたりして、センサーを変化させて、なるほどこの感覚だったらあの発言や態度にうまく接続できるな、なんて思ったりする。でも、シミュレートすらできない、と思わされることもある。という感性は、結果として「世界観」の中に存在しえない。普段は想定できていない。だから、気も遣えず、前提にもできていない。ので、怖いな、と思わされることがある。起床は午前10時半。いいてんき。でも、雨が降るらしい。現状目標は『記憶の中にいる「しっかりしていた彼ら」に負けないような隙の無さを獲得する』で、週間目標は『朝の間にその日の最適解を思い浮かべて、その最適解を実現するためにすべきことを2つ列挙する』だ。

スクウェアの「メインストリート」ではないところ

▼ライブ・ア・ライブ。バハムートラグーン。ルドラの秘法。レーシングラグーン。武蔵伝。デュープリズム。あまり売れなかったんだよね、なんて評されるスクウェアの作品群が、いまだかなりの人気を維持していることに、改めて気づかされる。すげえ好きだ、と言っている人が、わりと多く観察できた。この潮流に乗りうるような作品はもう発売されないのだろうか、と思う。あるいは、気づいていないだけなんだろうか。

好きなものに好きだと言って、嫌いなものは嫌いだと言って

素直に好きだと言って嫌いだと言って「バランス」を変えていく

▼好きなものは好意ばりばりで扱い、嫌いなものは嫌悪まるだしで扱う――消費者、こそが「最良の消費者」なのだ、という認識には惹かれるものがある。判定機構が「良い」と認識してくれたものを、素直に、実直に、誠実に、真摯に、認め、褒め、称え、奨め、称賛と歓喜の対価を払い、同時に、判定機構が「悪い」と認識してしまったものを、躊躇うことなく、迷うことなく、誤魔化すこともなく、駄目、と告げ、退け、避け、排除し、廃棄し、破棄する。なんていう「純粋な消費者」ばかりであれば、良いものは峻別され、悪いものは淘汰され、ゆっくりと「素敵なバランス」が実現されていく、というような世界観には、かなり惹かれるものがあるのだ。確かにそうなるんじゃないかな、なんて思えるからだろう。でもって、実際そうなったら楽しいだろうな、と思えているからだろう、

でも、あまり好きじゃないスタイルだったりする

▼が、嫌いなものを嫌いなものとして扱う、という行為が実はあまり好きではない。我が儘すぎるだろ、とは思う。思うが、やっぱり素敵だとは思えない。いまいち推奨したいと思えない。おのれの判断を信用しきっていないところがあるから、なのだとは思う。簡単に言えば、嫌いだ、と感じ、疑うことなくそれの気持ちに従って、対象を「嫌いなものを扱うように」扱って、ばしっと排除してみたら、あとから勘違いだったと気づいて、後悔する羽目になる、というのが、怖いのだ。類似した経験があるから怖いのだ。ゆえに、ジレンマが発生する。邪魔なのはおまえみたいなやつだ、というジレンマが、発生する。

夢のような「取り扱い術」はないのだろうか

▼ゆえに思う。無茶でも、無謀でも、思う。可能性はあるんじゃないか、と模索したいと思うのだ。検証したい、と考えている。嫌いなものを「暫定的に」まるで「好きなものを扱うかのように」扱いながら、しかし、判定機構の判定が的確なものだったりしたら、つまり、嫌いだ、という解釈が妥当なものだったとしたら、外形的には「好きなものを扱うかのように」扱っているにもかかわらず、駄目なものは峻別され淘汰されていく、という流れ自体はうまいこと引き起こされる、なんていう夢のような「取り扱い術」が獲得できないものか確認してみよう、とは思っているのだった。駄目だ、嫌いだ、と思いつつ、その判断を軽視はせず、素直に受け止め、従いながら、でも、勘違いかも、の可能性も否定せず、検証もしながら、好意的な目も捨てないで、同時進行で取り扱い続ける、なんて形で表現できるだろうか。断罪を為しつつ、敬意も捨てない、という表現も浮かんだ。

嫌いと罵倒を同じ領域に置いている人は多いにせよ、嫌いが発生すると同時に罵倒が発生してしまう、というわけではない

▼最近の流れに合わせて多少考えていた。嫌いなものを嫌いなもののように扱う、と、罵倒表現、は、関係がない。相関関係はあるにせよ因果関係はない、というやつだろう。