世界は称賛に値する

日記を書きます

定義と判定のバランス

▼情緒的な文章が書きたい――情緒的な言葉が書きたい。なんて思った時点で――なんて書いた時点でもう「情緒的」ではなくなってしまうんだろうな、なんて考えていた。情緒の定義は何なのさ、という問いも浮かんだ。が、対象物を見て「情緒的かどうか」綺麗に判定できるのなら、あえて定義をはっきりさせる必要なんてないんじゃないかな、とも思う。無論、揺らぐ可能性は高まる。判定は曖昧になりやすくなる。だから「問題」は「ブレを許容できるかどうか」として現出するのだ、とも考えた。起床は午前8時半。陽光は穏やかで、明るくて、風も心地好くて、思わず笑顔がこぼれてしまった。好きだなあ、と迷いなく言えた。結構珍しい。現状目標は『記憶の中にいる「しっかりしていた彼ら」に負けないような隙の無さを獲得する』で、週間目標は『朝の間にその日の最適解を思い浮かべて、その最適解を実現するためにすべきことを2つ列挙する』だ。刻め、と思う。

有効的に頭を動かせば体もついてくる? 効果的に体を動かせば頭もついてくる?

▼頭の動かしかた、と、体の動かしかた。がある。
▼動くために、だ。
▼重視すべきはどちらか。つまり、優先順位はどうするべきか。
▼いや両方だろ、も無論アリではある。
▼(学、と、術、から連想した)
▼(論、法もあって、このあたりは加藤典洋『言語表現法講義』を参考にしている)

言葉に対する味蕾は目に最も多くある、ようだ

▼最近はニコニコ動画をわりと活用している。で、思った。歌詞が表示されるだけで印象が全然違うものになってしまうな、なんて思ったのだった。簡単に言えば、素敵さが増すことが多い、のだ。言葉を「耳」で聞いているだけでは感じられなかったことが「目」で見ることによってきちんと捕捉できるようになる、のである。言葉に対する感受性は明らかに「目」が優れてしまっているんだな、と自覚させられた。繊細だと思ったし、敏感だとも思った。読む、だと、言葉の持つ鮮やかな彩を保ったまま、劣化させることなく、純粋に受け止めて「心」まで運ぶことができる、なんて言ってもいいだろう。

故詠みのベル(きをふしさん)

 ぼん、ぼん、ぼんごれびあんこ☆ ぼっぼ・ぼ・ぼ、ぼんごれびあんこ☆ さて虚構というものの魅力がどこにあるかということなのだが、倒錯、欺瞞といった感情を客観的に感じるとういう、矛盾した心理体験にそのひとつをみることができる。倒錯は自然発生的、自己欺瞞は機能必然的ではあるが、外部との切り離しという準備をともなう。内部においていくつかのロジックを変革または削除することで系が狂い、それ自体の変革がより上層の系からはじき出される。しかし内部において、ロジックにもとづいて正しく系は動作している。ただあるのは変化と必然、オカシサはどこにもみいだせない。欺瞞もまたロジックに対する干渉である。ログはプロテクトされリカバリ不可。ただ内部における整合性だけが確保されつづける。わたしは狂わない。
――無題

[この描写には圧倒されるな、と感嘆しました][この描写でしか表現できないものを表現していると思う]