世界は称賛に値する

日記を書きます

生理的に理屈は気持ちよさそうかなあ

▼▼理屈を読んでいるのがやっぱり気持ちよいのかなあ、と、面白!って思ったツイートの言葉を眺めていて、考えていた。人間が生理的に持つ気持ちよさ、というような題材を想起して、美味しいものは気持ちよい、リズムは気持ちよい、といったものらと見比べながら考えた。言葉を読んでいるのは気持ちよい、というのも同種かな、とも思った。暴力や攻撃や支配というようなものが見せる気持ちよさ、じぶんの意見が別の人間の思考や意志を納得させた時の気持ちよさ、っていうのも思った。あとは、性的な気持ちよさも想像した。ほどよい運動や、手触りのよさなどから来る気持ちよさも想像した。

感情の前にだからを、感覚の後ろになのでを

▼▼論理的思考の訓練の場が今日はあった。これって論理的と言えるんだろうか?という問いを文章に向けてみたりするのは大変好きだ。好きなのでそのあたりは楽しみつつ、感情とか感覚などを、理詰めにする、っていうことについて考えて、そのことの印象、そのやりかた、好き嫌い、正確性や妥当性、について考えたりもしていた。感情を分析し、感覚を整理し、だから××だ、××なので○○だ、と、前後に言葉を接いでいく。理由っぽいものを並べ、文脈として挙げつつ、帰納し、演繹し、派生や亜流と見比べる。類似品も見比べる。▼▼ビジネスライクな情報分析や問題解決という「見かた」を精神面に持ちこんでみるのは、面白いなあ、という印象は、改めて持った。普段持っていないイメージのせいか、新鮮味が強くて、かなり面白く思えてしまった。
▼▼ビジネス面の分析や解決にまつわる「答えのなさ」や「観測者によって見るところも解決策も変わるだろう」の難しさに右往左往させられている風景を見ながら、だったら感情や感覚に関しての「理詰め」があやしく思えてきちゃうのなんて、当然じゃん、と少し思ったりもした。ビジネス的な理詰めより感情や感覚に対する理詰めのほうが、よっぽど無茶苦茶である。より無理矢理な雰囲気がある。暗中模索が過ぎる印象とも言える。とにかく難しいことだけは似ているけれど、実際、内実はかなり違うからなあ、ということを再認識した。ビジネス的理詰めには「ほんとうに合っているかあやしいなあ」って言いたくなるけれど、精神的理詰めには「そもそもほんとうにそこに理屈なんてあるのかあやしくない?」って言いたくなる。というような違いがある。▼▼しかし逆に、感情や感覚のほうが、理詰めしやすいぞ、って言えるような可能性だって、あるかも、とも思った。見えない理屈や文脈を見出そうとする難しさと、あるかどうか判らない理屈や文脈を捏造や勘違いを避けつつ構築してみせる難しさは、違う。どちらが難しいかも変わるだろう。ケースバイケースと言える気もする。思想や視座、趣味や才能、好み、によっても変わる気がする。

ハワイやツォルキンなどで遊んだ(ボードゲーム会・二つ)

オープンボードゲーム会 2018/09/24

 ・ワードスナイパー
 ★ハワイ
 ★ふたつの街の物語+キャピタルズ拡張

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白色ボードゲーム会 2018/09/24

 ・人狼ドッチ[写真なし]
 ★ツォルキン
 ・ガンツシェーンクレバー(ガンシュンクレバー)
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一日二度目

▼▼目の前で起こった現象、事物に関する説明、だけを書いたところで日記を終えようとしてしまった場面があって、あれ、ほかにも書けることがあった気がするんだけど、という違和と発想が出た。で、なんとなくほかの人様の日記を読んでみて、あ、なるほど、なにを思ったか、なにを感じたか、ということを書くような流れが日記というものにはありえたんだっけ……、って思い出した。思い出せた。で、いくつか言葉を足して、そのようにした。思ったことや感じたことを書き足した。思ったことを思い直し、感じたことを感じ直した。もう一度同じ日を生きた、と言える気はした。日記を書くことはつまり人生を二度生きることである、というような観念と命題が好きだ(前に人から聞いた観念で、好きなのだった)。

プロセスを復帰させますか(親切)

▼▼優しくしよう、というか、親切にしよう、というような気持ちが、もっと自然かつ緩やかに出せている時期が──あるいは、今よりもっと多く出せている時期が、あった、と記憶していて、妙に強くそのあたりのことを意識させられる状況が、今日はあった。そうか、昔はこういう雰囲気で出せていたんだっけ、と思い出せる瞬間があった。以前は、なんというか、もっと打算がなかったというか無邪気だったというか、あと、盲信とか妄想とかが強めだったというか、まあ、なんにせよ、意識や認識に違いがあった気がする。失敗や無駄や逆効果なんかを想起させてくる経験則などがぜんぜんなかったから、なんてふうに言えるところもあったりするかと思う。昨今だと、まあ、打算も邪気も(以前と比較したら、かなり)持つようになってしまっていて、盲信とか妄想とかも、かなり弱まってしまったんじゃないかと思えるのだけど、でも、言うなれば「エミュレート」のような形式や手順で、ほぼ同じ効果のプロセスを再現することはできそうだ、って、今日は思ったのだった。ビビりを呼び覚ます経験則に関しても、あんまり見ないようにする術がありそうじゃん──横目や薄目が、可能なんじゃなかろうか、って思えてきた。なんかまあ、現状なりの再現方法がありそう、と思えた。
▼▼親切や優しさってほんと難しいな、とは思うようになって、出しかた変えよう、出すところ変えよう、出すか出さないかは逐次検討しましょう(でもって、考えるのが面倒で出さないことを選んでしまう……)、というようなことも数多く考えるようになって、結果として、出しづらくなってしまっていた。出さない癖がついてしまっていた。出す出さないという選択肢を見ようとする機会も意志も弱くなってしまっていた。というような事柄に関して、現状を踏まえつつも改めて検討させてくれるような状況、が、今日、ほんとうに偶然にも訪れてくれて、うーん、まあでも、前みたいなやりかたでも、とりあえず行けそうなんかなあ、と思い直せたのだった。確かに以前は浅はかな思考や検討で実践してしまっていたけれど、でもまあ、駄目ではなさそうだったし、現状でもまあ、いちおうの効果は期待ができそう、やってみてもよさそう、って判断できた。あのプロセスをまた復帰させてもよい、って思えた。手持ちの部品で現状なりのプロセスを構築できそう、とも思えた。

普通、通常、あと一般、うーん、平均も並置できる?

▼▼平均的って言葉は専用の単語もあるし、出しゃばりすぎなんじゃないかなー、中央値や最頻値を見たほうがよい状況だってあるのに平均値に目を向けようとする言葉ばっかり目立ってるのってよくないんじゃないかなー、というようなことを、一昨日は考えていたのだけど、普通とか通常とか、あと一般とか、このあたりの言葉を考えている時にも、平均、って言葉を一緒に並べようと発想しているところがあるなあ、ということにも改めて気づいた。通常はこうだ、普通はこうだ、一般的にはこうだ、平均的にはこうだ、という並置に「平均」が混じってるの、駄目なのでは、って思えてきたのだった。

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